平成30年新年賀詞交歓会2018/01/15

 1月15日は恒例のイベント。名古屋駅前のキャッスルプラザホテルで開催された。愛知会の代表のあいさつは星野仙一の言葉を引用して締めくくった。最初に登壇したのは河村たかし名古屋市長、少し酩酊気味だったのか、名古屋弁で市行政の貢献ぶりを紹介し、メディアが取り上げないと不満をぶち上げた。愛知県大村知事はやや遅れて登壇、各政党の国家議員、県会議員、各市町村会議員、関係省庁、士業団体等や関係団体等の各代表者のご臨席を賜り、盛会に終わった。
 お歴々の長いあいさつが終わると、西川副会長の音頭で乾杯、会員同士の懇談の時間だ。まずは料理で腹ごしらえとディシュの料理を食べた。ここでしか会えない会員もいるので各テーブルを回ってあいさつと交流を心がけた。午後7時にお開きになった。

広辞苑の中の「LGBT」と「台湾」の解説2018/01/15

http://www.sankei.com/affairs/news/180115/afr1801150033-n1.html

核心部のみ抜粋
 (1月)12日に発売された(広辞苑)第7版では、LGBTを「多数派とは異なる性的指向をもつ人々」と説明している。LGBTはローマ字の頭文字を使った略語。このうちLGBは、女性の同性愛者を指す「レズビアン」、男性の同性愛者を指す「ゲイ」、両性愛者を指す「バイセクシャル」を意味する。Tは、身体の性と自己認識としての性が一致しないことやその人を指す「トランスジェンダー」の頭文字。

 中日新聞主筆の「小出氏は「三河は保守的な風土が強い所だが、大村さんは非自民の態勢を貫きつつ、自民党的な発想も大事にしていることを言った。(性同一性障害という)表現は不適切だった」と説明した。」の性同一障害との違いは何か。

http://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/sexual-minority_b_8606170.html
ハフィポストに
「"性同一性障害(GID)"と"トランスジェンダー"
新聞やニュースで話題に挙がることが多くなった『性同一性障害(GID)』という名称。ある場面では、トランスジェンダーと呼ばれたりもしています。 さて、この混乱しやすいふたつの名称が どのような場面でどのような人に使われる言葉なのか、知っていますか? 実は、多くの人が間違った認識をしているのです。

利用される場面
"性同一性障害" や"トランスジェンダー" はどのような場面で利用されるでしょうか?たとえば、下記のようなものがあげられます。

新聞やテレビのニュース
LGBTパレード
親や友達にカミング・アウトするとき
学校や職場に申請を出すとき
単純に日本語と英語の違いではないんです。 『性同一性障害』が使われているのは、オフィシャルな場面が多いと思いませんか?実は、性同一性障害というのは障害という言葉からも分かるように【医学用語】なんです。人の個性や性質を表すものではなくて、『心と体の性別に違和感を感じる障害』ということです。また『精神科で診断を受けた人』を指すことも多いですね。なので、LGBTの知識のない相手に説明したり、公的な手続きをする場面では、こちらの言葉が活躍します。

性同一性障害とトランスジェンダーとは何か?違いは何か?いろいろと意見はありますが、私は『トランスジェンダー』は『心と体の性別に差がある人』のことを指していると思います。とても広義な言葉なので、その中には性同一性障害も含まれているということです。トランスジェンダーを自称する人たちの多くは、トランスジェンダーであることをアイデンティーとしてオープンにしている人も多いです。

"トランスジェンダー" ≠ "性同一性障害"
歴史的に見ると、『性同一性障害』という言葉はわりと新しい言葉です。 日本では、『トランスジェンダー』の中でも性別適合手術などの身体的治療を望む人たちが社会的に認知され、法的な整備もされ始めた2003年頃から『性同一性障害』という言葉が知名度を持つようになりました。 ただ、『トランスジェンダー』の人全員が身体的治療を望んでるわけではないのです。なので中には『トランスジェンダー』=『性同一性障害』と認識されてしまい、困惑している人もいます。心と身体の性別に違和感があっても、その度合が人それぞれであるように、社会的に身体的にどのような性別でいたいのかも多様なのです。

自称の多様性
多様な性が溢れている現代で、人をカテゴライズすることはとても難しいことでもあります。しかし、性のあり方の名称にアイデンティーを持つことができ、自信を持って生きることができるのも事実です。『トランスジェンダー』と『性同一性障害』のどちらを自称するかは、診断があるかどうかではなく、どちらにアイデンティティーを持てるかではないでしょうか 。アイデンティーは時間ともに変化する可能性もあるということもあります。当事者でも非当事者でも、自らのアイデンティティーを模索し、それをお互いに尊重し合える関係性を築けたら素敵ですね!

*【障害】という言葉を使うかどうかについてもよく争点になりますが、ここでは割愛しました。」とあった。
 
・・・・上記の文脈の中で「『トランスジェンダー』の人全員が身体的治療を望んでるわけではないのです。なので中には『トランスジェンダー』=『性同一性障害』と認識されてしまい、困惑している人」とあるから広辞苑の説明はまちがいとの指摘になったのだろう。
 中日の小出主筆も同じ日に口が滑ったのは偶然ではあるまい。「男なのか女なのか」、を保守でもない、左翼でもない大村知事の資質に適用してみたかったのだろう。
 文中に「 『トランスジェンダー』は『心と体の性別に差がある人』のことを指していると思います。とても広義な言葉なので、その中には性同一性障害も含まれている」とある。
 社会の多様性重視の傾向で近年になって脚光を浴び始めた言葉。小出主筆が混乱するのも仕方ないが、政治家に適用するには無理があると思う。広辞苑の説明も訂正するべきだ。
 台湾の扱いも事実に即して訂正するが良い。
https://www.iwanami.co.jp/news/n22847.html

https://twitter.com/koujien7

http://www.huffingtonpost.jp/foresight/kojien_a_23318266/

広辞苑は現在の第6版から第7版に改訂されたものが新年1月12日に刊行されるタイミングもあり、岩波書店の対応が注目されるなか、12月22日、同社ホームページ上で公開した「読者の皆様へ――『広辞苑 第六版』『台湾』に関連する項目の記述について」で、第7版では変更がないことを明らかにするとともに、「(前略)小社では、『広辞苑』のこれらの記述を誤りであるとは考えておりません」として、以下の主張を展開している。

〈中華人民共和国・中華民国はともに「一つの中国」を主張しており、一方、日本を含む各国は「一つの中国」論に異を唱えず、中華人民共和国または中華民国のいずれかを正統な政府として国交を結んでいます。

日中共同声明は、1971年10月25日国連における中華人民共和国による中国代表権の承認と中華民国の脱退、また1972年2月21日のニクソン訪中の流れを受け、日本が中華人民共和国を唯一の合法政府と認めたものです。

同声明中で、日本は中華人民共和国が台湾をその領土の一部とする立場を「十分理解し、尊重」するとし、さらに「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」と加え、これによって日本は中華民国との公的関係を終了し、現在の日台関係は、非政府間の実務関係となっています。このような状況を項目の記述として「実質的に認め」たと表現しているものです。〉(岩波書店ホームページより)

日本政府が中華人民共和国と日中共同声明を交わしたとき、日本政府はその交渉において、中華人民共和国政府が要求した「1つの中国」のなかで、「中華人民共和国は中国の唯一の正統政府」ということは承認したが、「台湾は中華人民共和国の領土である」という部分については玉虫色に処理した。

その結果、用いられたのが「理解し、尊重する」という文言であった。この「理解し、尊重する」というのは、外交的に練り上げられた文章で、お互いに解釈可能な余地を残している。肝要な点は、日本政府として「中国の主張については承知しており、反対は唱えないが、実態として、台湾の地位つまり帰属はまだ最終解決に至っていない」という認識に尽きている。

その前に、リチャード・ニクソン米大統領(当時)の訪中で米中が交わした「米中共同コミュニケ」のなかでも、米国は中国の主張を「認識する」とだけ述べている。これは、中国がそのように語っていることを「知っている」とする以上でも以下でもない。

言わぬが花

なぜ、米国や日本がこの点を守り通そうとしたか。理由の1つは、日米安保体制や台湾の安全の問題にも直結するからだ。もし台湾が中華人民共和国の領土であると100パーセント完全に認めてしまえば、万が一、中華人民共和国による台湾への武力行使が起きたとき、それは中華人民共和国のなかで起きている「内戦」になってしまい、日米安保条約でも介入する正当性を失ってしまう。

野島剛氏の主張
「国際情勢のなかでは、いまの中華人民共和国は優勢であり、強大であり、日本とも正式な国交を結んでいる。台湾=中華民国は、確かに劣勢であり、その立場は弱いようにみえる。しかしながら、マイノリティへの同情や支援を旨とするリベラリズムに依拠すると日本社会から評価されている岩波書店であるからこそ、台湾の人々が直面した苦しい状況への配慮が求められることではないだろうか。民主や自由を掲げて、自らの「帰属」、つまり未来を求めて苦闘している台湾の人々への「共感ゼロ」にもみえる今回の対応には、伝統あるリベラルの牙城としての岩波書店の名が泣く、というしかない。」は正論。