佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』の断片的ノート32012/05/12

 本書の裏表紙に「アヘンを制するものは支那を制す。」とある。
 里見甫は東亜同文書院で培った中国語を駆使して、まずジャーナリストになった。京津日日新聞に入社する。里見はここを足がかりに軍の信頼を勝ち取り、やがて日本内地のメディア統合の先駆けとして、現在の電通と共同通信を誕生させる発端とのなる満州国通信社を立ち上げることになった。北京新聞記者に転じる。この記者時代が重要である。郭沫若と親交を結び、蒋介石にも会見している。
 愛知大学が刊行した中日大辞典には郭沫若の尽力があったと同大学ののHPにもある。「中日大辞典刊行のきっかけとなった原稿カードの返還については、先生の並々ならぬご尽力をたまわった。」
 http://leo.aichi-u.ac.jp/~jiten/outline.html#A02
 里見甫の業績も人脈も暗いものであるが、唯一この接点は明るい光に満ちている。
P138には
 「湯村家所蔵の写真アルバムを見ると、この時代の里見はすべて支那服である。仕立てのいい支那服を着、流暢な中国語で取材する日本人記者は、里見の他にいなかった。」とある。
 日本人が支那服を着れば中国人に見える。まして中国語が堪能ならばもう見分けがつかない。中国名もどきの李鳴、李始吾を使っている。山口淑子氏(1920~)こと李香蘭も子供時代から培った中国語の歌で当時の満州国において一世を風靡した。アジアの歌姫と呼ばれた。ドラマでは中国服姿で歌う場面がある。一時は中国人として売り込んでいたのだった。見た目には分からない。まさに一衣帯水である。
 日本人と中国人は一衣帯水というが
 辻本貴一氏のHP4/9付け「中韓を知りすぎた男」から引用させてもらうと
 「日本人の文明とモラルで中国を理解するのはまず不可能です。

中国でビジネスをしていると時々初対面でトップクラスの人は『日中両国は「一衣帯水」の隣国であり、2000年以上の両国国民の往来の歴史がある』とかぶせてくる。

去年12月の福田首相と胡主席の会談でもこの言葉が出てきた。

中国側が言っている「一衣帯水」の意味とはひとすじの帯のような狭い海を隔てて永遠に隣人として存在し続ける以上は、お互い理解し合って努力する必要があるということらしい。

日本の政治家は会談の最初に中国首脳からこの言葉を聞くと、まったくその通りだ、お隣とは仲良くしなければ、少しぐらいの無理は聞こうといって一歩譲歩してしまう。

中国に対して一歩引けば、後は際限なく踏み込んでくる。

生きるか死ぬかの戦いをしているビジネスマンは中国人に一歩踏み込まれたらお終いという危機意識で常に対処している。

だから彼らが最初にかぶせる「一衣帯水」や2000年間のお付き合いなどの言葉に幻惑されることはない。むしろこのような言葉を言う中国人は油断が出来ない、危険な人物と判断して身を引き締める。

ところがわが国の政治家達や文化人は、この言葉の魔法にかかって直ぐに親中派になってしまう。

中国ビジネスをしている戦士達は、彼らの朝令暮改、契約違反、虚偽の申告に悩まされ、中国信義とは「ご都合主義」だということが分かってくる。

彼らは有利と見れば平気で契約を破ってくる、ヤクザのほうがまだ安心である。ヤクザは日本の法治国家に存在しているが、彼らの中国には法がない。警察も裁判所も機能していない、訴えるところがない。

歴史を知らない政治家や文化人が中国を語る時に「両国は2000年以上の交流の歴史がある」とよく言うが、とんでもない間違いです。日本は1300年前に中国との付き合いをやめました。それから一切、付き合わないできて明治維新以後、付き合い始めた。

だからたかだかまだ100年しか付き合っておりません。その後、戦後30年、国交正常化まで彼らと付き合わなかった。お陰でその間はストレスも溜まるもこともなしに、日本は幸せな時代でした。

「お隣の国だから仲良くしなければ」という政治家や文化人は中国の歴史を全く勉強していません。

この国は隣接する全ての国と仲が悪いということを知っていますか?
インド、ネパール、カザフスタン、キルギス、ミャンマー、ラオス、ベトナム、などと一戦交えています。

この国はいつも『友好』を掲げながら突然手のひらを返して「恫喝外交」に切り替え、効果がないと躊躇なく戦争の手段を取ります。

チベットのような軍隊を持たない弱小国家には突然軍隊が侵入して占領してしまいます。中国政権の傀儡でアメリカと戦ったベトナムにもその後戦争を仕掛けています。
昨日まで友好国だったベトナムに対して傲慢にも?小平は「懲罰」戦争を公言してはばからなかった。しかしベトナム兵は強かった、こっぴどくやられたのは中国軍でした。

彼らは脅して従わせる文化なのです。ここを理解しないと「友好」と「脅し」の狭間で頭が混乱するだけです。

ビジネスマンは100も承知で付き合いますが、愚かな政治家や文化人は必ず理解不能に陥ります。

ご機嫌をとってでも中国と仲良くしなくてはならないと思っている福田様、あなたがそう思っても、彼らは全くその気がありません。

貴方の頭脳で中国パズルを解くことは不可能です。

今、日本企業は、もう完全に引き揚げムードです。大企業は知りませんが我々の仲間は逃げ支度をしています。

韓国企業は夜逃げを始めました、さすがに日本企業は後始末をして引き揚げています。逃げるが勝ちです。

しかし親中主義の福田様、下手な外交は一企業の失敗などではすまされない、国の存亡に関わる問題です。

福田様、色っぽいチャイナドレスを着ていつまでチャイナサービスをするつもりですか?」と過激な中国嫌いに見えるが本質を突いていると思う。警戒心をもって取引することを啓蒙される。

 宮脇淳子『真実の中国史』の中のP153「日本人の中国観が一変した日清戦争」によれば、日本人は近代に入って、日清戦争(1894-1895)まで中国人を知らず、従軍して初めて見たそうです。
 藤田佳孝『日中に懸ける 東亜同文書院の群像』(中日新聞)によると日清貿易研究所が1890年に設立され、1901年に東亜同文書院へと発展して行きます。日清戦争の際には日清貿易研究所の卒業生らが多数、通訳として活躍したそうです。
 現在でも漢詩に親しむ日本人は多い。私も好きだ。芭蕉も名古屋の商人である弟子から杜甫などの漢籍を贈られている。ただの諧謔的な言葉遊びから文学的な俳句に発展した源になったのであろう。
 古来からの親中派は生身の中国人を知らなかった。1906年に陸軍大学校を主席で卒業した名古屋市の松井石根(陸軍大将で1948年巣鴨で処刑)も親中派というが、中国を支えようという思想だった。
 それが日本留学時代に面倒をみてやった蒋介石に裏切られて、東京裁判では、南京大虐殺の責任まで負わされて、絞首刑という。そんな馬鹿な話があるかと思う。

 里見甫は親中派であった。しかし、関東軍のアヘン密売(P312には密売ではなく、軍の委託を受けたという)の仕事も請け負っていた。そういう二重性がある。カネには執着しなかったらしい。ぼろ儲けできるアヘンの売買は誰がやっても儲かる。そのために私腹を肥やす人間には任せられない。(毀誉褒貶のある孫文も私財を蓄積するような男ではなかったらしい。カネにきれいという点では一致する。)
 里見の人間性を的確に表現している以下の文。
 「易姓革命を繰り返してきた中国は、一筋縄ではいかない社会である。一朝事あれば、味方と思っていた者が不倶戴天の敵に回り、敵と思っていた者が千年の知己同然の味方に変わる。
 日中戦争下にあって、里見ほどこうした中国社会の有為転変と人心の融通無碍さの髄まで知り抜いた男は、おそらく一人もいなかった。そういう男だったからこそ、アヘン販売を通じて和平工作を進めるという前代未聞の離れ業が可能となった。」
 著者の佐野眞一氏は様々な一次資料を引き合いにしながら、里見甫の人間を描こうとしてきました。P275から始まる「孤高のA級戦犯」は本書の核心部だろう。時系列で次々に里見の人生の秘密が明かされてゆく。ここの至る前半部分が大変な労作でした。
 結局、里見甫の人生とは何だったのだろうか。
 アヘンの売買で得た巨額のカネは中華民国の蒋介石、関東軍の甘粕正彦、政商・児玉誉士夫、昭和の妖怪・岸信介にも渡ったという。中国の混乱の中で利用されていただけだろうか。A級戦犯でありながら、釈放されたのは利益を与えた人脈につながる誰かが指示したに違いない。アメリカは東亜同文書院をスパイ学校と見ていた。すると蒋介石の筋だろうか。
 エリートといえどもけっして幸福な人生ではなかった。中国を深く知りすぎたのであろう。