『大法輪』「7月号ー特集<独り>の生き方・死に方」を読む2019/06/24

 書店の店頭で『大法輪』7月号ー特集<独り>の生き方・死に方を手に取り、思わず購入。執筆者の中に行政書士の勝桂子氏も<独り>を満喫するためにーを寄稿しています。もう一つの肩書きは葬祭カウンセラーです。
 要旨は、冒頭で隠居してからの日々ー年金生活に入り、日々の糧のため働くことから離れられる時間ー中略ー寺社を訪れ、軽やかな空気をいっぱいに吸い込み、「自分は何者であるか」、「今生でどのような使命を帯びて今、ここに居るのか」といったことを感じ、考えて見ましょう。成績や売上を競うことから離れ、誰と較べることもなく、孤独を恥じることもなく、独りきりで佇む瞬間。と書いて、最後の章でダメ押しの「ひとと較べない(=<独り>を満喫する)」にあるようです。
 思えば、山岳会の編集担当でよく話をしたAさんは愛知県立図書館長を定年で退職後、山岳会に入会されました。Aさんの兄はトヨタ自動車の部長級で退職。元部長同士で集る会合があると、お宅は、何年の入社で、部長には何年に昇進したか、などの会話があいさつ代わりに交わされるとか。つまり他と比較して自分の地位を確認しているわけです。成功した人生だったのか、まあまああの人よりはましな人生だったのか、などと。
 山岳会の中には企業経営者もいます。学者もいます。この人の発想には常に人を用いることです。悪く言えば人を利用すること。経営者は商売が基本ですから人を用いるのは当然です。しかし山岳会のような利害の無い団体でもこの発想が抜けきらないのです。人のうえに立つものは常に孤独です。今まで何者でもなかった時は人が集ったのに昇格すると途端に扱いが変わります。逆説的に言えば、だからこそ人物の正体が見えているのです。
 4月には山岳会の大先輩が逝きました。クリスチャンだったので、葬儀はキリスト教の方法でごく短時間に終わりました。司祭がおっしゃるには、キリスト教は本人供養だけで、先祖供養はしないのだとか。たしかにこのことが、仏教は日本に受容され、キリスト教は排除されてきた原因だったわけです。教義には戦争後、勝利すると敵の男性は殺害、妊婦も殺害、処女は味方の兵士に与えられるという。キリスト教の受難は自身の排他的な思想性にあったのです。
 宗教はアヘンといったのはマルクスでした。司馬遼太郎は「宗教はある意味では人間を飼いならすための道具であり,. 文化的システムであった。」という。毒にもなり薬にもなるという意味でしょう。
 この雑誌の特集では、あえて孤独を楽しめと説いています。そのことが他との交わりにおいて意義を見出せるのです。
 登山が趣味の私にはいつも草深い山中に埋もれた木地師の墓を思います。山里からも遠く深山の中に風化した墓を見ると、定住しない子孫は墓守どころではなかったのです。石の墓はまだいいほうです。もっと昔は木で作ったでしょうから朽ちて自然に帰って行きます。死んだものは忘れられるのが一番辛い、と言います。それが先祖供養であり、山で遭難死した登山家ならば、遭難碑です。
 すると芭蕉の
”野ざらしを心に風のしむ身かな”
を覚悟の上で生きて行きたいもの。

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