『日本行政』5月号から2012/05/02

 巻末の3月末現在の行政書士登録人数は42177名となっている。異動状況は新規が146名、廃業が402名、死亡その他が37名であった。特に廃業数の多さに注目する。年齢層は分からない。
 伝統的な建設業界の許認可は減る一方と見られる。長年、この業界に依存していた人は苦戦されているだろう。一方で若い人も難関の試験を突破して、開業したものの仕事がない現状に廃業されたのだろうか。私が試験に合格した25歳当時は10年は許認可の大手事務所の下積みで食えないといわれた。それは税理士でも1級建築士でも同じことだった。いつの時代でも開業すれば直ちに食えるものではない。それで会社員になり、定年後、年金併用で開業したわけである。
 幸い法改正で会計帳簿作成が法定業務となった。会社は代わっても職種は変えなかったのが幸いした。会社員でいる間にITの勉強もできた。成年後見制度という一見、会計とは何ら無関係であるが、財産管理を主に後見するので何のことはない、被後見人の会計係りなのである。若い頃の苦労がようやく追い風となり始めた気がする。
 5月号のクローズアップ「コスモス成年後見サポートセンターの現状と展望」を一読した。会員は4/1現在で20支部、674名とある。まだ1.6%程度である。これに先行して業務をしていた東京の団体が加盟すれば5%は行けるのではないか。
 行政書士の強みは何か。それは行政との強い結びつきと本人に近しい関係が築けるフットワークの軽さ、と指摘。家裁はコスモスがどの程度信頼に足るかを見ているとも示唆する。この指摘の通り、マンションの住民に行政書士がいることで成年後見人交代の依頼を頂いた。依頼人の関係者には税理士、司法書士もいたが遠方という。近くで顔をみる行政書士ならばということだった。その信頼にこたえていかねばならない。

莫 邦富『「中国全省を読む」』事典2012/05/03

平成21年刊行。新潮文庫。著者のモーバンフさんは上海市で1953年に生まれた。1985年に来日して以来、27年になる日本通である。まさに日中に懸ける人物だろう。
 手軽に中国のことを知りたいときに読むために手元においておきたい本。地理の本は大好きで、子供のころからこの類の本を買ってもらって読んでいた。だから地理だけは成績も良かった。面で把握することが得意になったのも何気なく読む地図や地理の本が手元にあったからだろう。
 この本は面の把握だけでなく、それぞれの都市と日中にかかわる歴史も少し開陳されていて興味深い。次に改訂する際は大学の所在と歴史も触れてあるといい。上海交通大学とか東亜同文書院大学跡など紹介されれば、旅心を刺激すること請け合いだろう。
 吉林省なら白頭山登山と観光にも触れるといい。知人らが白頭山に登山に行った際、まず韓国に飛んで乗り換えてから吉林省へ行ったらしい。そして中国内なのにわざわざ朝鮮人のガイドを雇ったということもP75を読むと訳が分かった。お互いに助け合っているんだな、と思った。

佐野眞一『阿片王 満洲の夜と霧』の断片的ノート22012/05/05

 里見甫は明治29(1896)年1月22日に生まれた。戸籍には出生地の記載なし。長男の湯村啓介は小倉生まれ、A級戦犯で逮捕され、GHQ国際検察局の尋問では、秋田県の能代と回答。
 大正二年二月、里見は修猷館中学を訪問した孫文の前で柔道をとっている。<これより小生の中国関係のはじまれりというべし>同年三月に卒業し、上海の東亜同文書院に進学。 明治34(1901)年、日中の共存共栄を目標に、近衛文麿元首相の父・篤麿らによって開校した同校は、各府県派遣の特待官費留学生のみ入学を認めていた。
 上海はアヘンから生まれた。上海は十九世紀初頭まで、別名、滬と呼ばれていた。里見が入った東亜同文書院の校友会を滬友会というのは、これにちなむ。
 1840年清朝と英国でアヘン戦争が始まる。南京条約締結、香港を割譲。国際都市・上海に生まれ変わる歴史の始まり。イギリスは治外法権的な租界を、まだ葦の原が生い茂る黄浦江のほとりに設営し、やがてフランス、アメリカなどの列強もこれにならった。イギリス租界はその後、共同租界となり、その一角の虹口(ホンキュー)地区には日本人街もつくられた。
 歌謡曲にも四馬路と虹口は沢山歌いこまれている。「上海ブルース」(昭和14年)「夜霧のブルース」(昭和22年)などディック・ミネの退廃的な歌の背景になっている。「上海帰りのリル」(昭和26年)はタンゴ調のヒット曲。
http://blog.livedoor.jp/oke1609-oke1608/archives/3132350.html
 日本人の流入も激しく、最盛期にはイギリス人居住者を抜くまでになった。長崎から船で一昼夜明けると、もうそこは上海だった。上海は下駄履きで行ける日本から一番近い「外国」だった。
 日清戦争(1894年から1895年)があった。中国国民党は1894年ハワイで孫文が結成。1911年に辛亥革命が起きる。毛沢東は中国現代史は1840年に始まったという。宮脇淳子氏は1894年の日清戦争後に始まるとしている。(中国の立場からみた『真実の中国史』李白社2011年) 
 大正10(1921)年7月の中国共産党の発祥の地=上海。魯迅、アンドレマルロー、エドガースノー、アグネススメドレーなどの作家、ゾルゲをはじめとするスパイが暗躍した。このあたりは尾崎秀樹『上海1930年』(岩波新書)に詳しい。東亜同文書院の事にも第四章を割いている。1927年入学の27期生には後に日共党員になったOBもいたようだ。1912年に発足した中国国民党政権下の中華民国は当時、日本人の学校内の左翼活動には鷹揚だったらしい。
 そして謀略と喧騒が渦巻く「魔都」上海にやがて彼らに伍して「阿片王」といわれた里見甫が登場する。
 同文書院は一高、陸士、海兵と肩を並べるエリート校だった。
 同文書院で有名なのは、徹底した中国語教育だった。四音という発音を身に付けた。スパイ養成学校と陰口を叩かれた。これは卒業に際し、中国奥地まで踏査する調査大旅行を課したことへの色眼鏡からきた誤解である。同文書院卒業生の進路は、およそ三つに分かれる。外交官、商社マン、ジャーナリストである。石射猪太郎は1908年(明治41年)に東亜同文書院を卒業し、初の外交官になる。(『外交官の一生』中公文庫1972年)。
 東亜同文書院は1901年に開設される。 里見甫は大正2(1913)年に入学し、1916年に卒業した。大正10(1921)年には芥川龍之介が大阪毎日新聞社の海外視察員として派遣されている。『上海游記』(講談社文芸文庫)の中に同文書院や書院生を見た記述あり。昭和3(1928)年、作家・横光利一は一ヶ月、上海に滞在し、その見聞を元に小説『上海』(岩波文庫1956年原作は昭和7年)を書いた。
 金子伊昔紅という校医(俳人)も居た。「私は大正9(1920年)の春から満五ヶ年間、上海東亜同文書院の校医を勤めた。あの山も見えない濁った水の不潔な環境の中で、長男の就学期を迎えた為め、大正14(1925年)3月辞任して郷里に帰った。」と記す。長男とは兜太氏のこと。
 高浜虚子も昭和11年6月8日に欧州旅行の途次、立ち寄って、「上海の梅雨懐かしく上陸す」の句を残す。(朝日文庫『高浜虚子集』Ⅰ昭和59年) 
 昭和7(1932)年、満州国誕生。満州国は、関東軍の機密費づくりの巨大な装置だった。関東軍の機密費の資金源となったのはアヘンだった。

森林の土地の所有者届出制度の創設について2012/05/07

 愛知県行政書士会会報「あいち」(平成24年5月No252)のP33のお知らせコーナーから。
 表題の通り、森林の土地の届出制度の周知のために、林野庁森林整備部計画課長の名前で日行連あてに依頼が寄せられた。
http://www.rinya.maff.go.jp/j/keikaku/todokede/index.html
平成24年4月からスタートしました。
1.個人か法人かによらず、売買契約、相続、贈与、法人の合併で森林の土地を取得した場合は、事後の届出として、森林の土地の所有者届けが必要です。
2.所有者となった日から90日以内に、取得した土地がある市町村役場に届出ます。相続の場合、財産の分割が行われていない場合でも、90日以内に法定相続人の共有物として届出をする必要があります。
3.届出の書式は林野庁のHPからダウンロードできます。
4.形式ではなく、届出をしない、虚偽の届出をした場合は、10万円以下の過料が課されることがあります。
上記について相談を申し受けます。特に東海三県の山岳地理について、広く、深く、精通しております。お役に立てることがあるかも知れません。当事務所HPの「お問い合わせ」のフォームに書き込んで送信してください。

成年後見人交代の事務手続き2012/05/08

 GWは交通事故、竜巻、山岳遭難、地震など災難が多かった。今日は久々に晴れた。やや蒸すがもう5月である。思えば、今年の4月は冷ややかだったが、すっかり緑に満ちる季節である。
 今日は午後、積立金の解約手続きに立ち会った。積み増しは中途で止めてあり、今時の投資環境を考えて解約し現金化するという判断になった。先方の担当が来宅されることになり、経過を確認することにした。その後、丸の内の事務所へ移動。

会計業務2012/05/09

9:00から17:00まで顧問先にて執務。どんより曇った空模様である。フロントに雨粒が一つ。湿っぽい。今にも降りそう。
 溜まった郵便物や書類の整理が第一歩になる。まずは明日の振込み依頼書の作成の準備から入る。予め整理しておいて、後は追加で記入すると完成。次は手形、小切手作成の下準備に入る。相殺領収書の作成、17時過ぎにほぼ終わった。
 税務調査の結果、加算税の請求書が来たのでチエックの上、支払準備する。出向した社員の退職金の当社負担の件は否認されて、出向先で負担するように指導された。税金が加算されることになった。差し引きゼロのようなものだが見逃さない。うむっ。

会計業務2012/05/10

9:00~17:00まで顧問先にて執務。手形、小切手の作成と点検、関連の仕訳伝票起票。銀行員に振込依頼書を渡す。役員に支払の決裁、修正申告による納税の内容説明など行う。

会計業務2012/05/11

9:00~14:00まで顧問先にて執務。仕訳伝票を入力後、主要科目残高をチエックする。支払手形は1件入力ミスが判明し、訂正して合致した。買掛金が一部4月中に指示した返品伝票の取り消しが実行されていないことが判明し、仕入担当に再度指示した。締め後に再確認。中途退職予定の社員の書類の数ヶ月分の給与支払額の下書きを作成。

佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』の断片的ノート32012/05/12

 本書の裏表紙に「アヘンを制するものは支那を制す。」とある。
 里見甫は東亜同文書院で培った中国語を駆使して、まずジャーナリストになった。京津日日新聞に入社する。里見はここを足がかりに軍の信頼を勝ち取り、やがて日本内地のメディア統合の先駆けとして、現在の電通と共同通信を誕生させる発端とのなる満州国通信社を立ち上げることになった。北京新聞記者に転じる。この記者時代が重要である。郭沫若と親交を結び、蒋介石にも会見している。
 愛知大学が刊行した中日大辞典には郭沫若の尽力があったと同大学ののHPにもある。「中日大辞典刊行のきっかけとなった原稿カードの返還については、先生の並々ならぬご尽力をたまわった。」
 http://leo.aichi-u.ac.jp/~jiten/outline.html#A02
 里見甫の業績も人脈も暗いものであるが、唯一この接点は明るい光に満ちている。
P138には
 「湯村家所蔵の写真アルバムを見ると、この時代の里見はすべて支那服である。仕立てのいい支那服を着、流暢な中国語で取材する日本人記者は、里見の他にいなかった。」とある。
 日本人が支那服を着れば中国人に見える。まして中国語が堪能ならばもう見分けがつかない。中国名もどきの李鳴、李始吾を使っている。山口淑子氏(1920~)こと李香蘭も子供時代から培った中国語の歌で当時の満州国において一世を風靡した。アジアの歌姫と呼ばれた。ドラマでは中国服姿で歌う場面がある。一時は中国人として売り込んでいたのだった。見た目には分からない。まさに一衣帯水である。
 日本人と中国人は一衣帯水というが
 辻本貴一氏のHP4/9付け「中韓を知りすぎた男」から引用させてもらうと
 「日本人の文明とモラルで中国を理解するのはまず不可能です。

中国でビジネスをしていると時々初対面でトップクラスの人は『日中両国は「一衣帯水」の隣国であり、2000年以上の両国国民の往来の歴史がある』とかぶせてくる。

去年12月の福田首相と胡主席の会談でもこの言葉が出てきた。

中国側が言っている「一衣帯水」の意味とはひとすじの帯のような狭い海を隔てて永遠に隣人として存在し続ける以上は、お互い理解し合って努力する必要があるということらしい。

日本の政治家は会談の最初に中国首脳からこの言葉を聞くと、まったくその通りだ、お隣とは仲良くしなければ、少しぐらいの無理は聞こうといって一歩譲歩してしまう。

中国に対して一歩引けば、後は際限なく踏み込んでくる。

生きるか死ぬかの戦いをしているビジネスマンは中国人に一歩踏み込まれたらお終いという危機意識で常に対処している。

だから彼らが最初にかぶせる「一衣帯水」や2000年間のお付き合いなどの言葉に幻惑されることはない。むしろこのような言葉を言う中国人は油断が出来ない、危険な人物と判断して身を引き締める。

ところがわが国の政治家達や文化人は、この言葉の魔法にかかって直ぐに親中派になってしまう。

中国ビジネスをしている戦士達は、彼らの朝令暮改、契約違反、虚偽の申告に悩まされ、中国信義とは「ご都合主義」だということが分かってくる。

彼らは有利と見れば平気で契約を破ってくる、ヤクザのほうがまだ安心である。ヤクザは日本の法治国家に存在しているが、彼らの中国には法がない。警察も裁判所も機能していない、訴えるところがない。

歴史を知らない政治家や文化人が中国を語る時に「両国は2000年以上の交流の歴史がある」とよく言うが、とんでもない間違いです。日本は1300年前に中国との付き合いをやめました。それから一切、付き合わないできて明治維新以後、付き合い始めた。

だからたかだかまだ100年しか付き合っておりません。その後、戦後30年、国交正常化まで彼らと付き合わなかった。お陰でその間はストレスも溜まるもこともなしに、日本は幸せな時代でした。

「お隣の国だから仲良くしなければ」という政治家や文化人は中国の歴史を全く勉強していません。

この国は隣接する全ての国と仲が悪いということを知っていますか?
インド、ネパール、カザフスタン、キルギス、ミャンマー、ラオス、ベトナム、などと一戦交えています。

この国はいつも『友好』を掲げながら突然手のひらを返して「恫喝外交」に切り替え、効果がないと躊躇なく戦争の手段を取ります。

チベットのような軍隊を持たない弱小国家には突然軍隊が侵入して占領してしまいます。中国政権の傀儡でアメリカと戦ったベトナムにもその後戦争を仕掛けています。
昨日まで友好国だったベトナムに対して傲慢にも?小平は「懲罰」戦争を公言してはばからなかった。しかしベトナム兵は強かった、こっぴどくやられたのは中国軍でした。

彼らは脅して従わせる文化なのです。ここを理解しないと「友好」と「脅し」の狭間で頭が混乱するだけです。

ビジネスマンは100も承知で付き合いますが、愚かな政治家や文化人は必ず理解不能に陥ります。

ご機嫌をとってでも中国と仲良くしなくてはならないと思っている福田様、あなたがそう思っても、彼らは全くその気がありません。

貴方の頭脳で中国パズルを解くことは不可能です。

今、日本企業は、もう完全に引き揚げムードです。大企業は知りませんが我々の仲間は逃げ支度をしています。

韓国企業は夜逃げを始めました、さすがに日本企業は後始末をして引き揚げています。逃げるが勝ちです。

しかし親中主義の福田様、下手な外交は一企業の失敗などではすまされない、国の存亡に関わる問題です。

福田様、色っぽいチャイナドレスを着ていつまでチャイナサービスをするつもりですか?」と過激な中国嫌いに見えるが本質を突いていると思う。警戒心をもって取引することを啓蒙される。

 宮脇淳子『真実の中国史』の中のP153「日本人の中国観が一変した日清戦争」によれば、日本人は近代に入って、日清戦争(1894-1895)まで中国人を知らず、従軍して初めて見たそうです。
 藤田佳孝『日中に懸ける 東亜同文書院の群像』(中日新聞)によると日清貿易研究所が1890年に設立され、1901年に東亜同文書院へと発展して行きます。日清戦争の際には日清貿易研究所の卒業生らが多数、通訳として活躍したそうです。
 現在でも漢詩に親しむ日本人は多い。私も好きだ。芭蕉も名古屋の商人である弟子から杜甫などの漢籍を贈られている。ただの諧謔的な言葉遊びから文学的な俳句に発展した源になったのであろう。
 古来からの親中派は生身の中国人を知らなかった。1906年に陸軍大学校を主席で卒業した名古屋市の松井石根(陸軍大将で1948年巣鴨で処刑)も親中派というが、中国を支えようという思想だった。
 それが日本留学時代に面倒をみてやった蒋介石に裏切られて、東京裁判では、南京大虐殺の責任まで負わされて、絞首刑という。そんな馬鹿な話があるかと思う。

 里見甫は親中派であった。しかし、関東軍のアヘン密売(P312には密売ではなく、軍の委託を受けたという)の仕事も請け負っていた。そういう二重性がある。カネには執着しなかったらしい。ぼろ儲けできるアヘンの売買は誰がやっても儲かる。そのために私腹を肥やす人間には任せられない。(毀誉褒貶のある孫文も私財を蓄積するような男ではなかったらしい。カネにきれいという点では一致する。)
 里見の人間性を的確に表現している以下の文。
 「易姓革命を繰り返してきた中国は、一筋縄ではいかない社会である。一朝事あれば、味方と思っていた者が不倶戴天の敵に回り、敵と思っていた者が千年の知己同然の味方に変わる。
 日中戦争下にあって、里見ほどこうした中国社会の有為転変と人心の融通無碍さの髄まで知り抜いた男は、おそらく一人もいなかった。そういう男だったからこそ、アヘン販売を通じて和平工作を進めるという前代未聞の離れ業が可能となった。」
 著者の佐野眞一氏は様々な一次資料を引き合いにしながら、里見甫の人間を描こうとしてきました。P275から始まる「孤高のA級戦犯」は本書の核心部だろう。時系列で次々に里見の人生の秘密が明かされてゆく。ここの至る前半部分が大変な労作でした。
 結局、里見甫の人生とは何だったのだろうか。
 アヘンの売買で得た巨額のカネは中華民国の蒋介石、関東軍の甘粕正彦、政商・児玉誉士夫、昭和の妖怪・岸信介にも渡ったという。中国の混乱の中で利用されていただけだろうか。A級戦犯でありながら、釈放されたのは利益を与えた人脈につながる誰かが指示したに違いない。アメリカは東亜同文書院をスパイ学校と見ていた。すると蒋介石の筋だろうか。
 エリートといえどもけっして幸福な人生ではなかった。中国を深く知りすぎたのであろう。

続・毛沢東「もう喧嘩は済みましたか」2012/05/14

2/23付けのブログを再掲する。
 (2/20の)河村市長の南京事件に関する発言は大きな波紋を広げつつある。しかし、一方で表題の言葉を思い出した。田中角栄と周恩来の会談の結果に対して毛沢東が田中角栄に質した。
毛沢東: もうケンカは済みましたか。ケンカをしないとダメですよ。
田中角栄:周首相と円満に話し合いました。
毛沢東: ケンカをしてこそ、初めて仲良くなれます。

 こんなやりとりがあって日中国交回復が始まった。
 南京市の人も思い出して欲しいものだ。堂々とケンカ=討論したらいい。

 以上のように書いた。
 河村発言を支持する石原慎太郎知事、渡辺昇一氏ら有識者団体が中日新聞に意見広告の掲載を依頼した。
ところが、
 以下はWEB版産経新聞から転載。
「社論」か「言論の自由」か 中日新聞と有識者の意見広告トラブル」と題して、「有識者団体による南京事件の議論を呼びかける意見広告を、中日新聞が「社論に合わない」として、掲載を拒否し、団体側とトラブルになっている。」とあるのに驚いた。
 理由として
 「今回、中日新聞側は、河村たかし名古屋市長の発言を「不適切」とする社論を展開しているため、見出しに「河村発言支持」とある広告は掲載できないという。
 ただ、広告は本文で「率直な討論の必要を提起した河村発言は貴重な提言。その意味で河村発言を支持し、議論が国民の間でも広がることを期待して意見表明する」と記しており、有識者団体側は「広告の目的が議論の活発化であることは明白だ。憲法の言論の自由に反する」と主張している。」

 毛沢東ですら喧嘩=論争をしなさいと、勧めている。中国共産党と論争をしたい、という意見広告であり、中日新聞の社論とは直接争わない。何を恐れているのか。中日新聞よ、どうしたんだ。

 南京大虐殺がなかったことは中国共産党も知っている。東京裁判で中華民国時代に、突然出された事件であった。アメリカの原爆投下への贖罪意識があったからともいわれる。それを受け継いだだけのことだ。
 中国の言いなりになると益々馬鹿にされますよ。だから、石原知事の方が信頼されているはずです。もちろん、河村市長も同じです。漁夫の利の故事ではないけれど、中国お得意の敵同士(日本人同士)闘わせるのです。中日新聞までそんな手口に乗ってほしくないですね。