田中宏『在日外国人』を読んで考えたこと2012/04/14

 岩波新書。副題にー法の壁、心の溝ーとある。1991年に刊行後、入管法の改正を反映させて1995年に新版を刊行。著者は1937年生まれで東京外国語大学中国語学科を卒業。一橋大学大学院に進む。アジア学生文化協会に勤務、愛知県立大学教授、龍谷大学教授、一橋大学名誉教授を歴任。
 アジア学生文化協会で働いた体験から在日外国人の問題に取り組む。日本の入管行政を在日外国人の立場から発信し続けてきた。それゆえ法の壁という副題に行き着く。もうひとつは朝鮮人、中国人への差別意識があるという面から心の壁を指摘する。
 田中宏は左翼的な語彙を用いるがマルクス・レーニン主義者ではない。中国、韓国朝鮮に対して同情的である。「中国が日本に対して何をしたのか。爆弾の一つでも落としたのか」という中国人に会う。
 イエーリンク『権利のための闘争』では闘うことを強調する。闘争は和の文化の日本にはなじまない法思想である。田中宏が孤立するのもその点にある。南京事件の批判者の立場である。
 田中宏は8歳で敗戦を迎えた。食べ盛りの子供時代に充分食べ物を得られなかっただろう。ひもじい思いもされたであろう。そのせいか今でも残さずきれいに食べるそうだ。そんな側面がネットに書かれている。昔の勤務先の創業者も戦時中、学徒動員の工場で、食べ盛りなのに1日おにぎり2個の配給しかなかったという。ある日そっと食堂から食べ物を盗んだらこっぴどく叱られて地面に叩きつけられたという。だから豊かになった今でも「こんな戦争に勝てるはずがない」と戦前の国家を恨んでいた。田中には立派な学歴があるが同じ思いではなかったか。
 資本主義国家のアメリカでありながら、人生の形成期にルーズベルト大統領、後のトルーマン大統領、マッカーサー元帥の中国びいき、容共の政策が反映した教育を受けた。新聞、出版物などの検閲が行われ、日本人への洗脳の放送が行われた。日本社会を破壊する作業が数年続いた。その影響を逃れられるはずがない。
 以下はWIKIから 
 1951年9月8日、日本政府はサンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年4月28日が終戦の日である。
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 1946年から1948年にかけて東京裁判が行われた。7人が処刑された。その後、三ヶ根山の頂上付近に墓が建立された。1949年に中華人民共和国が成立した。1950年に朝鮮戦争が始まった。これでようやくスターリンの真意を理解し、アメリカは容共から反共へと舵を切った。日本を再軍備させたいが叩きすぎたから何も残っていない。1951年日米安保条約が締結されて、アメリカは日本の番犬になってしまった。
 13歳の子供がこのような激動のアジアの動向を意識するには少し早い。それでもアメリカによって一旦刷り込まれた日本を貶める歴史知識は忘れ得ないものとなっただろう。マスコミや日教組に入り込んだ左翼も多数いたという。彼らが新聞、雑誌などで反日的な思想を普及させていく。日本の国内法の恩恵を得られない弱者、虐げられた在日外国人の立場でものを考える頭にされてしまった。いわば彼も犠牲者といえる。だが在日朝鮮・韓国人が弱者かというとそうではなかった。自ら望んで来日したのだった。しかし、いまさら、間違いでしたとは言えまい。藤原彰のように生涯自説を曲げずに人生を終えるのだろう。

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