日下公人、田久保忠兵衛、ロナルド・モース鼎談『「強い日本」を取り戻すためにいま必要なこと』を読む2013/07/01

PHP。2013.6.10刊行。帯のキャッチに「憲法なんていらない!?」とあった。内容は憲法問題にとどまらず、日本の深層文化にまで踏み込んでおり、一通り読んだだけでは理解できない。何度か再三読んで付箋をつけて思考の材料にした。いわば、日本人として考えるための本といえる。
 特に第二章の『遠野物語』と日本の奥義が異色。そして第三章がアメリカ、第四章が中国と進んで主題の憲法問題に収斂させてゆく。付箋は5箇所つけたが、4枚は第二章に集中した。私の関心もそこにあるのだろう。
 武士道は日本精神に非ず、という指摘は新鮮であった。反対に「黒沢明の映画は、欧米的だから世界で認められたのです」(日下)も当初は意外なことを言うものだ、と思った。しかし、小津安二郎の名作だって、「東京物語」はアメリカの生命保険会社のPR映画を下敷きにしているそうだ。アメリカやフランスで評判がいいのはうなずける。
 村上春樹はノーベル賞をとるために最初から英語で書いている、ということを何かで読んだ。『武士道』に倣ったのだろうか。世界に認められるには欧米先進国に阿ることなのである。
 三島由紀夫の『潮騒』はギリシャ神話に題材を得、『金色夜叉』はアメリカの大衆小説の換骨奪胎という研究結果は新聞で読んだことがある。世間でわっと話題になり、新鮮なことは案外欧米にヒントを得ているのであろう。
 そんな風潮に反発して柳田國男は『遠野物語』を発表したという。岐阜県高山市で、一杯のかけそばと似たような話を柳田はイギリスの民話と指摘したという。つまり外国の事情にも通じていたのである。これは日本古来の物語ですよ、借り物でなくても、ここに『遠野物語』があるじゃありませんか。そういいたかったのであろう。
 この発想が、第一章の日本国憲法はアメリカ合衆国憲法の換骨奪胎という指摘につながる。そして第五章の「いまも生きている「十七条の憲法」に収斂された。十七条の憲法も隋や唐が軍隊で攻め込んでくるかも知れないと聖徳太子が制定されたというのです。(日下)
 現行憲法の9条は日米安保とリンクしている一体のもので、とても安心できるものではない。かつて、中国が攻めて日本を戦場にしたことがあるのか、という人もいるが、正に十七条の憲法のお陰で防いで来れたのです。したがって「強い日本」を取り戻すにはアイデンティティの確立が大切だということになる。本書に出てくる語彙は決して優しくはないけれど主意は理解できたと思う。

 余談になるが、柳田國男のやっていた学問は柳田学と呼ばれていたが、やがて民俗学になった。柳田國男を信奉していた生物学分野の今西錦司は、やはり今西学と呼ばれていた学問を自然学と提唱した。(講談社学術文庫『自然学の提唱』)これも西欧に模倣しない「棲み分け理論」があればこそだ。
 例えば、長良川に棲む魚の岩魚は源流に、あまごは上流から中流部に、鮎は中流から下流域に棲み分ける。みなサケ科である。適者生存の生存競争を標榜するダーウィンの進化論では説明できないというのだった。
 6/30の「夏山フェスタ」の反省会でそんな話題をちらっと耳にした。今西の棲み分け理論も今は否定されているとのことだった。恐らく生物多様性の誤解から生じている誤謬ではないか。酔いにまぎれて話が飛んでしまったのは惜しい。欧米来歴の思潮(コムニズム、グローバル、地球温暖化、生物多様性、などなど)は常に胡散臭いと感じるのは私だけだろうか。

 「強い日本」を取り戻すのに『遠野物語』がシンボライズされれば、柳田も本望というものだ。東北の山に登りたくなった。

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