先手を打つべし!2012/09/16

 中国で勃発した暴動で思い出すのはまたもや志賀重昂の論考だった。温故知新でふたたび全集をひもといて引用し、考えてみたい。

志賀重昂全集第壱巻P267から。
 「朝鮮統治の帰点」の最初の小見出しが「先手を打つべし」とある。

 「『民族自決』の反面は『小なる者弱き者は大なる者強き者に対して其の存在を主張し得』と云ふことである。而して之が世界の趨勢たるは恰も(あたかも)水なるものが高キより低キに就くと同じである。かく高キより低キに就くこそ水の趨勢なるに、之を悟らざるは昧者(まいしゃ=愚か者)一流の徒なるに、更に之を排斥し之を防止せんとて石を投じて堰くなどは真の昧者である。
 這般(はいはん=(多くの)これら)昧者や尚其蒙(もう=くらい、物知らずで道理が分からない)を治療し得べけんも、其投じたる石に依りて水の一二尺逆流するを見手を拍って『これ此の通り逆になし得た』と得々たる者あるに至りては、アア復た治療す可らざる昧者なる哉。
 此の如く石を投ずるなどてふ無用の心配と労力とを費やさず、何ぞ心機を一転し、我より『先手』を打ちて以って来るべき大洪水を未前に防止せざる、石を投ずるは却って洪水を来さしむるものである。否大洪水を自ら招くものである。迀(う=世事にうとく実用に向かない・こと(さま)。)なる哉、昧なる哉。朝鮮暴動の後始末、否朝鮮統治の帰点も亦た『先手』を打つ處に存する。」(大正8年6月「日本一」所載)

 朝鮮暴動とはWIKIから。ここでもアメリカは中国大陸に出遅れて、気楽に、民族自決を煽っている。

「背景」「第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより"十四か条の平和原則"が発表されている。これを受け、民族自決の意識が高まった李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京府東京市神田区のYMCA会館に集まり、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。

三・一運動の直接的な契機は高宗の死であった。彼が高齢だったとはいえ、その死は驚きをもって人々に迎えられ、様々な風説が巷間でささやかれるようになる。その風聞とは、息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとも、あるいは併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを峻拒したため毒殺されたなどといったものである。

実際のところは不明であるが、そうした風説が流れるほど高宗が悲劇の王として民衆から悼まれ、またそれが民族の悲運と重ねられることでナショナリズム的な機運が民衆の中に高まったことが、運動の引き金となった。」

 日本政府の外交の基本を啓蒙している。朝鮮を併合して十五年あまりであるが世界の趨勢は自治(米国が煽った)というのである。日本は民族自決をしたが、朝鮮のような弱いとはいえ(儒教的に)誇り高い国は、「自治を約言すべし」、そして自立を促して行け、という意味か。日本に統治されたくないばかりに暴動を起したことが背景にある。

 さて、今や韓国でも中国でも恐れていたことが現実となった。以上の文の朝鮮を中国に置き換えてもそのまま通じる。竹島を、尖閣を早くから実行支配すべきだった。これが先手を打つ唯一のことである。政府の重い尻を叩いたのが石原都知事で、本来、外交は国の仕事であると分かっていて、寄付金を募って、15億円も集めて、地権者と交渉していた。これで手打ちかと多くの国民は固唾を呑んで見守っていたと思う。そこを、国内法で裁くこともせずに釈放し、先回は不法に上陸を許してしまった。その上、強制送還である。国有化交渉は突然出てきた。石原都知事は何かと物議を醸す人物だと軽視されていたのだろうか。これでは益々中国を刺激してしまうと踏んで、国有化に乗り出したものか。
 それは大いなる誤算だった。中国では都知事と国の中国向けの茶番と見たらしい。国有化は引用文の「石を投ずる」の行為だった。石原知事を遠ざけて、刺激を沈静化した積りが却って、大洪水を招いてしまったのである。
 中国人民は尖閣は中国の領土と教えられているから、国有化されたと分かれば、反発するのは分かっていた。政府は反日暴動を容認してしまった。制御困難になればと思うとぞっとする。これが第二の天安門にならなければよいのだが。