渡部昇一著『取り戻せ、日本を。 安倍晋三・私論』を読む ― 2013/05/01
2013.2.27 PHPから刊行。4/28の「主権回復の日」にちなんで、各紙をチエックした「ニュースフィア」が社説の比較をしているので先に転載した。
政府は28日、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を、憲政記念館で開いた。1952年の4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を果たしたことを記念しての式典。天皇、皇后両陛下も臨席された。
安倍首相は「これまでたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたい」と述べた。
なお、沖縄県は1972年まで米施政権下に置かれ、28日は「屈辱の日」と呼ばれる。仲井真知事は欠席し、高良倉吉副知事が代理出席した。
日本各紙(朝日・読売・産経)は、「主権回復の日」をめぐり、それぞれの視点から課題を論じている。
【歴史と現状認識】
各紙は、日本が独立を果たし、国際社会の責任ある一員になると誓った日を記念すること自体は、意義があると述べている。
朝日新聞は、ドイツにならい“左右の立場の違いを超えて総括”する節目として意義があるとみている。式典開催を求めてきた自民党の野田氏の主張に賛同する形で記載している。ただし、占領期を「屈辱の歴史」と考え、過去の過ちを否定するような政治家の言動は危険だと主張。安倍首相の侵略戦争を否定するような答弁、憲法改正の動き、国会議員168人の靖国神社参拝など、“国際社会の疑念を招く”行動を危惧している。
産経新聞は、北朝鮮による拉致被害者の全員帰国、北方領土と竹島の返還がなければ、“真の主権回復はない”と断じた。さらに、中国の尖閣諸島奪取をねらう動きに言及し、戦後の憲法で軽視されてきた「国家主権」(自国の意思で国民や領土を統治する国家の権利)が脅かされている、と警鐘を鳴らしている。
読売新聞は、国の予算・法律や言論をGHQが統制した歴史が“忘れ去られようとしている”と懸念し、国際感覚を失った指導者たちによる戦争がそうした事態を招いたことなど、改めて見つめ直すべきと主張する。また産経新聞同様、北方領土や竹島、尖閣などの現状は“今もなお、日本の主権を揺さぶっている”と危機感をあらわにした。
【対沖縄姿勢】
安倍首相は式辞で、 “私は若い世代の人々に特に呼び掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだということを訴えようと思います”と述べた。各紙の沖縄に対する論調には温度差が見られる。
読売新聞は、沖縄県の高良副知事が「首相は比較的、沖縄の問題に向き合って発言された」と一定の理解を示したことを取り上げている。沖縄返還が実現したのは、日本が主権を回復して米国と交渉できたからだとも述べており、式典を評価する立場から論じているといえる。
産経新聞も、沖縄県内は反対一色ではないと報じた。また、米国施政権下でも潜在主権が認められたことは重要な事実だと述べている。
一方朝日新聞は、沖縄の式典抗議集会に1万人が参加したことを報じた。こうした断絶を招いたのは、本土の主権回復後、沖縄では土地接収で米軍基地が造られ、普天間の辺野古移設やオスプレイ配備が強引に進められていることに原因があるとの論調だ。安倍首相は、辺野古案の取り下げや日米地位協定の改正に取り組むべきと主張している。
以上
さて、本書の核心部のP139からP141の”東京裁判史観の闇を照らせ”、という論考を以下に転載させていただこう。若干編集してあります。
「いま一度、指摘しておきましょう。マッカーサーが戦後の1951年5月3日に米上院・軍事外交合同委員会で、日本の戦争動機について、「主として安全保障の必要に迫られてのことだった」と答えた事実。そして、サンフランシスコ講和条約11条の「戦争裁判の受諾」という部分の解釈をしっかりしておくこと。それが、日本が独立国として起つために不可欠です。
「戦争裁判の受諾」という言葉の原文(英語)は”accepts the judgments”を「裁判」と訳したのは悪訳、いや誤訳と言ってもよいのです。もちろん「判決」ですが、厳密に言えば「判決」でもありません。複数になっているから「諸判決」と訳すべきでした。(注1)
日本が受諾した「諸判決」とは、絞首刑・東條英機他6名、終身禁錮(本文では禁固)刑・賀屋興宣他15名、禁錮(禁固)7年・重光葵などといった具体的な諸判決であり、さらに、講和条約の第11条には次のような内容が付け加えられています。
「日本はこの禁錮(禁固)刑処せられたものを勝手に赦免、減刑、仮出獄させてはならない。ただしこの判決に関係ある一また二以上の国の決定や日本の勧告があればよい」
実際、終身禁錮刑を宣告された賀屋擱興宣は、第三次池田内閣の法相となりました。禁錮7年を宣告された重光葵は、出所後は改進党の総裁になり、鳩山内閣では副総理・外相となって日本が国連に加盟を承認された第11回国連総会に日本代表として出席しました。
重光は「これで私の日本に対する仕事は終わった、義務は終わった」と語り、帰国してまもなく亡くなりましたが、そのとき国連は黙祷し、弔意を表しています。
サンフランシスコ講和条約第11条の「諸判決」を受けた人たちは、このように国際社会の舞台に復帰し、日本を裁いた国からは、「諸判決」を受けた人たちの釈放や活躍に、一切異議は出されませんでした。
諸判決ならぬ東京裁判は、いわゆる「A級戦犯」の誰も受諾、納得していません。東條英機の「宣誓供述書」にあるように、「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦争をしたのである」「国家自衛のために起つということがただ一つ残された途であった」と言う主張は、マッカーサーの米国上院における証言録とも重なります。つまり最終的に、東條とマッカーサーは同じ見解を披瀝したことになります。
わが国が受諾したのは「判決」なのです。ソクラテスはアテナイの裁判を認めたのではなく、「判決」を受諾して毒を飲んだのです。日本は敗れたので、「判決」は受諾せざるを得ませんでしたが、東京裁判の論告を受諾した被告はなどはおらず、みんな反論しているのです。「裁判」の受諾と、「判決」の受諾は、全く別物であること、諸判決は被告個々に対するもので、日本国や日本人全体に対するものではないことを、明日の日本を担う日本人の常識としなければなりません。
今後は、あらゆる教科書に、以上を明記すべきです。そうできれば、戦後日本を覆った東京裁判史観という闇が晴れる、明るい一条の光となるでしょう。そして、はじめて「戦後レジュームからの脱却」が叶うのです。」
以上
注1 この部分には以下の反論がありました。
「judgments」が複数形になっている理由
サンフランシスコ条約11条、解釈の問題ですが、あまりにも低レベルな誤りの指摘です。
サンフランシスコ条約11条では、『Japan accepts the judgments…』と複数形になっています。右翼的評論家の中には、たとえばこのような主張が有ります。
『複数になっているから「裁判」ではなく「諸判決」である。諸判決とは絞首刑・東条英機他六名、終身禁固刑・賀屋興宣他十五名、禁固7年・重光葵などといった極めて具体的な個々のものである。』
単一の裁判で複数形になるのはおかしいので、個々の刑の宣告のことだ、と主張しているようです。しかし、複数形になっているはそのような理由では有りません。まず、サンフランシスコ条約11条の最初の部分です。
Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan,
「judgments」が、「the International Military Tribunal for the Far East(極東国際軍事裁判所)」の裁判の他に、「other Allied War Crimes Courts(その他、複数の戦争犯罪法廷) 」 の裁判を指していることは明らかです。
サンフランシスコ条約11条では「judgments」は複数形になっています。複数の法廷で複数の裁判が行われたのだから、複数形になるのは当たり前のことです。judgment(裁判)がsentence(刑の宣告)の意味に誤用されているわけでは有りません。
2005年09月27日
ブログ「松尾光太郎de海馬之玄関blogにも関連記事がありました。
◆渡部昇一さんの尻馬に乗らしていただく所以
「昨日、平成17年6月18日の産経新聞『正論』に渡部昇一さんが一文を寄せておられた。「「諸判決」と訳すべき平和条約第11条 誤訳悪用した言い掛かりを糾す」である。
同条約11条は東京裁判で下された戦犯への諸判決を日本が受け入れることを定めたものにすぎず、それ以上の何ものをも規定するものではないというご主旨であり、主張の根拠は同条約11条の英文に含まれる「accepts the judgments」の judgments は東京裁判等で下された具体的な「諸判決」だというもの。
英文読解の観点からは極めて常識的な主張だと思った。はい終わり。今日はここまで。」
「というわけにもいかない(笑)。この『正論』への投稿の中で渡部さんもおっしゃっている通り、「日本の左翼は第11条の judgments を「裁判」と誤訳したのを、そこだけ悪用して、「日本は東京裁判を受諾したのだ」と宣伝した。
朝日新聞はそれを徹底的に利用して日本人を脅迫している。「日本は東京裁判を受諾したのに、それに逆くつもりか」 朝日新聞の論説を書く人が第11条を読んでいないとは思われない。
日本の不利になり、コリアやチャイナに有利なことならウソでも書くという方針で世論を誤導しようとしているとしか思えない」という状況は今も継続しているだろうからである。
ならば、11条の誤訳を用いた彼等の企てを阻止するためにはもう少し詳しい反論が必要かもしれない。渡部さんの尻馬にのってコメントする所以である。」
「サンフランシスコ平和条約11条の「judgments」が「判決」か「裁判」かを巡っては、しかし、私には「それがそれほど重要なことかね」という思いもある。「judgments」を「裁判」と理解するとして、而して、「日本は東京裁判を受諾した」としてそれに何か重大な意味があるのだろうか、という感想を持っている。」
「確かに、「日本は東京裁判を受諾した」のだから、つまり、日本は東京裁判で示された歴史認識や大東亜戦争前の政治体制への否定的評価を受け入れたのだから、同条約を(将来に向かって)破棄でもしない限りその歴史的と政治的な評価に日本の政治の営みは今後も拘束される;
よって、所謂「A級戦犯」が合祀される靖国神社に時の首相が参拝するとか、日本の戦争責任を相対化するような歴史教科書が公教育の場で使用されるという事態は(単に道義的に問題があるだけでなく)サンフランシスコ平和条約に反することだと言うべきであるというような主張が、朝日新聞を始めとする戦後民主主義を信奉する勢力から(否、チャイナスクールの外交官や媚中派の政治家からも)繰り返されている。
けれども、歴史認識や一国の政治体制の評価などはサンフランシスコ平和条約どころかどのような国際法も確立した国際慣行も(そして、国際法の慣習と現行憲法第98条2項を経由して現行憲法を含むあらゆる憲法も)要求できない<法規制不可能>な内容である。」
「ならば、サンフランシスコ平和条約11条の「judgments」を「裁判」と訳するか「諸判決」と訳するかなどは、訳者/読者の英語力と日本語力を測る物指しとしては多少意味があるとしても法的と政治的には本来トリヴィアルな事柄にすぎないであろう。法学的にはそれはトリヴィアルな事柄にすぎないのではあるが、しかし、朝日新聞等の不埒な企てを見過ごすわけにもいかない。」(トリヴィアル=瑣末)
「11条の「judgments」に定冠詞の the がついているのは、それが直後に「of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan」(極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の・・・)という形容詞句によって特定されているからである。
ならば、11条の「judgments」は渡部昇一さんがいみじくも指摘された通り、具体的な複数の「諸判決」以外ではありえない。」
「それは、朝日新聞などの戦後民主主義を信奉する輩が喧伝するような、日本に法的な戦争責任を未来永劫課す根拠となるような歴史認識や大東亜戦争前の政治体制を否定的に評価するような政治思想を含む曖昧な「裁判なるもの」ではない。」
「簡単な話だ。一般に「judgment」を英和辞典で引けば「裁判」「判決」「審査」など幾つかの意味が列挙されている。しかし、法律用語としての「judgment」は、通常は「裁判所たる裁判官の判断」である。
それを「裁判」と呼ぶか「判決」と呼ぶかは論者の自由であるけれど、それは少なくとも歴史認識や戦争責任を将来に向けて規定するようなものではない。」
「朝日新聞などが、法律用語たる「judgment」のこの通常の語義を否定したいのならば、同条約自体の中から解釈の根拠を提示しなければならないだろう。そして、上で検討したように同条約の中には「judgment」を具体的な判決とは異なる「裁判なるもの」と解釈する余地は皆無なのである。」
「サンフランシスコ講和条約は日本と連合国の法的な戦争状態を終結させた平和条約である。平和条約は戦争状態を終結させることを主要な目的とする条約であり、けして、戦勝国側の歴史的正当性なり敗戦国の行為の善悪を定めるものではない。
つまり、平和条約としてのサンフランシスコ講和条約の使命の中核部分は条約が締結され批准されたと同時に終了したのである。
そして、サンフランシスコ講和条約を日本は完全に遵守した。
元外交官の加藤(紘一)さんに伺いたい。同条約第11条「戦争犯罪」のどこに、「靖国神社に<東京裁判の戦犯>を祀ってはならない」とか、「祀ったとしても時の内閣総理大臣が参拝してはならない」など書いてあるというのか!
まして、日本がこの条約を遵守して連合国との間の戦争状態を終結させ、独立を回復した後に現行憲法に従いどのような歴史認識を編み上げ、また、国家の正当性に関するイデオロギーを形成するかは日本国民の自由であり、豪も、戦争状態終結を目的とした条約に拘束されるものではない。」
「要は、「極東軍事裁判の判断を(日本は)、サンフランシスコ講和条約で受け入れた。そうである以上、私は靖国問題は、講和条約という国際的な約束を、日本が守り続けられるかどうかの問題だと思っている」という加藤さんの認識は法律論としては完全に間違っている。敷衍する。これまた簡単な話だ。」
「加藤さんは、「サンフランシスコ講和条約」で日本が何を受け入れたと言いたいのか? もちろん、日本は「極東軍事裁判の判断を、サンフランシスコ講和条約で受け入れた」。それは間違いない。(1)~(3)の不条理にもかかわらず日本は同条約を締結することによって(片面的にせよ旧連合国との間の)戦争状態を終了させたのである。」
「しかし、そこで日本が受け入れたものは、海外領土の放棄や日本の社会制度の改革等々占領軍から課せられた命令を誠実に遵守遂行して、占領政策の是非や非道については独立後も法律的に争わないことを約束し、戦争を終結させることに尽きる。」
「少なくとも、国際法的と外交史的にはそうである。ならば、独立後の「戦犯」なるものの処遇に関して(まして、政府から独立した宗教法人たる靖国神社に誰を祀り誰がいつ参拝しようが靖国神社と参拝者の勝手である)、サンフランシスコ講和条約や東京裁判を持ち出すことは何の意味もないのである。」
ブログ主のコメント
「法は内心には関与しません。どのようなサンフランシスコ条約11条の解釈を取ろうとも、首相の靖国神社参拝が同条違反ということはありえないのです。ただ、憲法上の「政教分離原則の違反」の可能性は残りますけれどね。そして、後者に関しても判例が取る「目的-効果基準」と「日本が継受した「政教分離」の内容」から見て違反ということはない。これでこの問題は終わりです。」2007/1/24(水) 午後 10:24
こんにちわ あなたの理解と渡部さんの理解は根本的に違うのではないですか 彼は誤訳だと言ってます その狙いを見落としているのでは
2007/9/8(土) 午後 6:13
ヒロシさん>
私は、「裁判でもって、ある国が遂行した一連の戦争の歴史的評価が決せられる」などの主張が否定される限りjudgmentsの訳語を「諸裁判」としようが「諸判決」としようがそう大した問題ではないと考えており、而して、このテクストにおいて、英文解釈としてjudgmentsを「裁判」と訳するるのが誤訳とまで言えるかどうかで渡部さんとは違うと思います。
でもね、それが「根本的」かどうかは知りませんが、【judgmentsを「歴史的な日本の戦争責任の有無や強弱の度合い」をも確定するsomethingを意味するような「裁判」ではない】とする点では、渡部さんの見解と私の主張は同じでしょう。本稿ではこの共有される部分に焦点をあてたということ。それだけのことですよ。
2007/9/8(土) 午後 8:26
WIKIPEDHIAは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84%E7%AC%AC11%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88
ブログ主の結論は
1)裁判所の構成と適用された裁判規範、そして、裁判手続きのデュープロセスの三面のすべてにおいて極東軍事裁判(東京裁判)は不適切な裁判である。
(2)東京裁判は事後法の禁止原則を犯す違法な裁判である。
(3)東京・ニュールンべルグの両裁判を通して、「平和に対する罪」「人道に対する罪」等々の新しい国際人権法上の犯罪類型が確立されたという国際制史上の意義があったとしても、上記(1)(2)の瑕疵は治癒せしめられるものではない。
(4)戦争状態の終結後も占領下の裁判の効果を将来にわたって有効とするサンフランシスコ講和条約第11条は慣習国際法に反し無効である。
少なくとも日本が独立回復後そう主張して第11条の無効を宣言することを条文自体を根拠に(日本が条約に調印し批准したことを根拠に)非難することは誰にもできない。
(5)サンフランシスコ講和条約第11条は法概念論(≒実定法における法源論)から見ても無効である。
同条約総体は現行憲法第98条第2項から法的効力を持つにせよ、第11条で「戦犯」の人権を制限し続けることは現行憲法上不可能であるからである。
(6)元来、「戦犯」なり「A級戦犯」なる法律用語は占領下においてさえ存在しない。
まして、現行憲法下ではなおさらである。これは「言葉の遊戯」ではなく、存在しない法律概念を元にある特定の人間の人権を制限することは完全に違法である。
(7)更に、昭和28年(1953年)には、「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」が国会で可決され、サンフランシスコ講和条約第11条に従い(上記(1)~(6)に述べたように法論理的には、従う必要はないのだけれど、我が日本はきちんと関係諸国に仁義を通した上で、)関係諸国の同意の下に総ての「戦犯」は全員釈放された。
(8)昭和29年(1954年)からは「戦傷病者戦没者遺族等援護法」によって、「戦犯」の遺族も他の戦没者遺族と同じく遺族年金・弔慰金が支給されるようになった(翌昭和30年には、東京裁判のための拘禁期間をも支給額算定対象期間とした恩給の支給も開始された)。
以上
渡部氏の誤訳、悪訳というご指摘に対しては、ググってみて、深く考察された論考を読むことができた。余り大きな問題ではないといえる。戦争を手続きとして終わらせた、ということに大きな歴史的意義があった。
子供の頃、戦争は一部の軍人が悪かった、国民は無理に引っ張られて犠牲にされた、と教えられたように思う。東京裁判の政治的な意味は後々の教育に生かすためだったと思われる。
主権回復の日に考えることはその点である。
諸判決が違法な裁判乃至、無効な裁判の元で下された。勝者側は日本に罪をかぶせることのみの目的だった。世界は腹黒いという。アジアの植民地に独立されて、統治国は大いなる損害を被った。東京裁判はこれに対する報復措置か。
日本は戦争には負けたが、アジアを植民地から解放したことは事実。東京裁判の歴史的背景を考えると、日本は死んだふりして受諾するのも必然であった。1日も早く占領下から脱却することが国益に適う。理不尽な裁判と分かっていても、占領から解放される手続きとして受諾されたんだと思う。犠牲になられた7名の日本人は名誉の死であった。
靖国に祀られた英霊に参拝することに中国や韓国に文句をいわれる筋合いはない。
現在の日本は教科書にこうした歴史をきちんと書いて教えてゆくことが必要である。そのためにも大人のわれわれが正しい歴史認識が必要である。
政府は28日、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を、憲政記念館で開いた。1952年の4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を果たしたことを記念しての式典。天皇、皇后両陛下も臨席された。
安倍首相は「これまでたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたい」と述べた。
なお、沖縄県は1972年まで米施政権下に置かれ、28日は「屈辱の日」と呼ばれる。仲井真知事は欠席し、高良倉吉副知事が代理出席した。
日本各紙(朝日・読売・産経)は、「主権回復の日」をめぐり、それぞれの視点から課題を論じている。
【歴史と現状認識】
各紙は、日本が独立を果たし、国際社会の責任ある一員になると誓った日を記念すること自体は、意義があると述べている。
朝日新聞は、ドイツにならい“左右の立場の違いを超えて総括”する節目として意義があるとみている。式典開催を求めてきた自民党の野田氏の主張に賛同する形で記載している。ただし、占領期を「屈辱の歴史」と考え、過去の過ちを否定するような政治家の言動は危険だと主張。安倍首相の侵略戦争を否定するような答弁、憲法改正の動き、国会議員168人の靖国神社参拝など、“国際社会の疑念を招く”行動を危惧している。
産経新聞は、北朝鮮による拉致被害者の全員帰国、北方領土と竹島の返還がなければ、“真の主権回復はない”と断じた。さらに、中国の尖閣諸島奪取をねらう動きに言及し、戦後の憲法で軽視されてきた「国家主権」(自国の意思で国民や領土を統治する国家の権利)が脅かされている、と警鐘を鳴らしている。
読売新聞は、国の予算・法律や言論をGHQが統制した歴史が“忘れ去られようとしている”と懸念し、国際感覚を失った指導者たちによる戦争がそうした事態を招いたことなど、改めて見つめ直すべきと主張する。また産経新聞同様、北方領土や竹島、尖閣などの現状は“今もなお、日本の主権を揺さぶっている”と危機感をあらわにした。
【対沖縄姿勢】
安倍首相は式辞で、 “私は若い世代の人々に特に呼び掛けつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだということを訴えようと思います”と述べた。各紙の沖縄に対する論調には温度差が見られる。
読売新聞は、沖縄県の高良副知事が「首相は比較的、沖縄の問題に向き合って発言された」と一定の理解を示したことを取り上げている。沖縄返還が実現したのは、日本が主権を回復して米国と交渉できたからだとも述べており、式典を評価する立場から論じているといえる。
産経新聞も、沖縄県内は反対一色ではないと報じた。また、米国施政権下でも潜在主権が認められたことは重要な事実だと述べている。
一方朝日新聞は、沖縄の式典抗議集会に1万人が参加したことを報じた。こうした断絶を招いたのは、本土の主権回復後、沖縄では土地接収で米軍基地が造られ、普天間の辺野古移設やオスプレイ配備が強引に進められていることに原因があるとの論調だ。安倍首相は、辺野古案の取り下げや日米地位協定の改正に取り組むべきと主張している。
以上
さて、本書の核心部のP139からP141の”東京裁判史観の闇を照らせ”、という論考を以下に転載させていただこう。若干編集してあります。
「いま一度、指摘しておきましょう。マッカーサーが戦後の1951年5月3日に米上院・軍事外交合同委員会で、日本の戦争動機について、「主として安全保障の必要に迫られてのことだった」と答えた事実。そして、サンフランシスコ講和条約11条の「戦争裁判の受諾」という部分の解釈をしっかりしておくこと。それが、日本が独立国として起つために不可欠です。
「戦争裁判の受諾」という言葉の原文(英語)は”accepts the judgments”を「裁判」と訳したのは悪訳、いや誤訳と言ってもよいのです。もちろん「判決」ですが、厳密に言えば「判決」でもありません。複数になっているから「諸判決」と訳すべきでした。(注1)
日本が受諾した「諸判決」とは、絞首刑・東條英機他6名、終身禁錮(本文では禁固)刑・賀屋興宣他15名、禁錮(禁固)7年・重光葵などといった具体的な諸判決であり、さらに、講和条約の第11条には次のような内容が付け加えられています。
「日本はこの禁錮(禁固)刑処せられたものを勝手に赦免、減刑、仮出獄させてはならない。ただしこの判決に関係ある一また二以上の国の決定や日本の勧告があればよい」
実際、終身禁錮刑を宣告された賀屋擱興宣は、第三次池田内閣の法相となりました。禁錮7年を宣告された重光葵は、出所後は改進党の総裁になり、鳩山内閣では副総理・外相となって日本が国連に加盟を承認された第11回国連総会に日本代表として出席しました。
重光は「これで私の日本に対する仕事は終わった、義務は終わった」と語り、帰国してまもなく亡くなりましたが、そのとき国連は黙祷し、弔意を表しています。
サンフランシスコ講和条約第11条の「諸判決」を受けた人たちは、このように国際社会の舞台に復帰し、日本を裁いた国からは、「諸判決」を受けた人たちの釈放や活躍に、一切異議は出されませんでした。
諸判決ならぬ東京裁判は、いわゆる「A級戦犯」の誰も受諾、納得していません。東條英機の「宣誓供述書」にあるように、「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦争をしたのである」「国家自衛のために起つということがただ一つ残された途であった」と言う主張は、マッカーサーの米国上院における証言録とも重なります。つまり最終的に、東條とマッカーサーは同じ見解を披瀝したことになります。
わが国が受諾したのは「判決」なのです。ソクラテスはアテナイの裁判を認めたのではなく、「判決」を受諾して毒を飲んだのです。日本は敗れたので、「判決」は受諾せざるを得ませんでしたが、東京裁判の論告を受諾した被告はなどはおらず、みんな反論しているのです。「裁判」の受諾と、「判決」の受諾は、全く別物であること、諸判決は被告個々に対するもので、日本国や日本人全体に対するものではないことを、明日の日本を担う日本人の常識としなければなりません。
今後は、あらゆる教科書に、以上を明記すべきです。そうできれば、戦後日本を覆った東京裁判史観という闇が晴れる、明るい一条の光となるでしょう。そして、はじめて「戦後レジュームからの脱却」が叶うのです。」
以上
注1 この部分には以下の反論がありました。
「judgments」が複数形になっている理由
サンフランシスコ条約11条、解釈の問題ですが、あまりにも低レベルな誤りの指摘です。
サンフランシスコ条約11条では、『Japan accepts the judgments…』と複数形になっています。右翼的評論家の中には、たとえばこのような主張が有ります。
『複数になっているから「裁判」ではなく「諸判決」である。諸判決とは絞首刑・東条英機他六名、終身禁固刑・賀屋興宣他十五名、禁固7年・重光葵などといった極めて具体的な個々のものである。』
単一の裁判で複数形になるのはおかしいので、個々の刑の宣告のことだ、と主張しているようです。しかし、複数形になっているはそのような理由では有りません。まず、サンフランシスコ条約11条の最初の部分です。
Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan,
「judgments」が、「the International Military Tribunal for the Far East(極東国際軍事裁判所)」の裁判の他に、「other Allied War Crimes Courts(その他、複数の戦争犯罪法廷) 」 の裁判を指していることは明らかです。
サンフランシスコ条約11条では「judgments」は複数形になっています。複数の法廷で複数の裁判が行われたのだから、複数形になるのは当たり前のことです。judgment(裁判)がsentence(刑の宣告)の意味に誤用されているわけでは有りません。
2005年09月27日
ブログ「松尾光太郎de海馬之玄関blogにも関連記事がありました。
◆渡部昇一さんの尻馬に乗らしていただく所以
「昨日、平成17年6月18日の産経新聞『正論』に渡部昇一さんが一文を寄せておられた。「「諸判決」と訳すべき平和条約第11条 誤訳悪用した言い掛かりを糾す」である。
同条約11条は東京裁判で下された戦犯への諸判決を日本が受け入れることを定めたものにすぎず、それ以上の何ものをも規定するものではないというご主旨であり、主張の根拠は同条約11条の英文に含まれる「accepts the judgments」の judgments は東京裁判等で下された具体的な「諸判決」だというもの。
英文読解の観点からは極めて常識的な主張だと思った。はい終わり。今日はここまで。」
「というわけにもいかない(笑)。この『正論』への投稿の中で渡部さんもおっしゃっている通り、「日本の左翼は第11条の judgments を「裁判」と誤訳したのを、そこだけ悪用して、「日本は東京裁判を受諾したのだ」と宣伝した。
朝日新聞はそれを徹底的に利用して日本人を脅迫している。「日本は東京裁判を受諾したのに、それに逆くつもりか」 朝日新聞の論説を書く人が第11条を読んでいないとは思われない。
日本の不利になり、コリアやチャイナに有利なことならウソでも書くという方針で世論を誤導しようとしているとしか思えない」という状況は今も継続しているだろうからである。
ならば、11条の誤訳を用いた彼等の企てを阻止するためにはもう少し詳しい反論が必要かもしれない。渡部さんの尻馬にのってコメントする所以である。」
「サンフランシスコ平和条約11条の「judgments」が「判決」か「裁判」かを巡っては、しかし、私には「それがそれほど重要なことかね」という思いもある。「judgments」を「裁判」と理解するとして、而して、「日本は東京裁判を受諾した」としてそれに何か重大な意味があるのだろうか、という感想を持っている。」
「確かに、「日本は東京裁判を受諾した」のだから、つまり、日本は東京裁判で示された歴史認識や大東亜戦争前の政治体制への否定的評価を受け入れたのだから、同条約を(将来に向かって)破棄でもしない限りその歴史的と政治的な評価に日本の政治の営みは今後も拘束される;
よって、所謂「A級戦犯」が合祀される靖国神社に時の首相が参拝するとか、日本の戦争責任を相対化するような歴史教科書が公教育の場で使用されるという事態は(単に道義的に問題があるだけでなく)サンフランシスコ平和条約に反することだと言うべきであるというような主張が、朝日新聞を始めとする戦後民主主義を信奉する勢力から(否、チャイナスクールの外交官や媚中派の政治家からも)繰り返されている。
けれども、歴史認識や一国の政治体制の評価などはサンフランシスコ平和条約どころかどのような国際法も確立した国際慣行も(そして、国際法の慣習と現行憲法第98条2項を経由して現行憲法を含むあらゆる憲法も)要求できない<法規制不可能>な内容である。」
「ならば、サンフランシスコ平和条約11条の「judgments」を「裁判」と訳するか「諸判決」と訳するかなどは、訳者/読者の英語力と日本語力を測る物指しとしては多少意味があるとしても法的と政治的には本来トリヴィアルな事柄にすぎないであろう。法学的にはそれはトリヴィアルな事柄にすぎないのではあるが、しかし、朝日新聞等の不埒な企てを見過ごすわけにもいかない。」(トリヴィアル=瑣末)
「11条の「judgments」に定冠詞の the がついているのは、それが直後に「of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan」(極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の・・・)という形容詞句によって特定されているからである。
ならば、11条の「judgments」は渡部昇一さんがいみじくも指摘された通り、具体的な複数の「諸判決」以外ではありえない。」
「それは、朝日新聞などの戦後民主主義を信奉する輩が喧伝するような、日本に法的な戦争責任を未来永劫課す根拠となるような歴史認識や大東亜戦争前の政治体制を否定的に評価するような政治思想を含む曖昧な「裁判なるもの」ではない。」
「簡単な話だ。一般に「judgment」を英和辞典で引けば「裁判」「判決」「審査」など幾つかの意味が列挙されている。しかし、法律用語としての「judgment」は、通常は「裁判所たる裁判官の判断」である。
それを「裁判」と呼ぶか「判決」と呼ぶかは論者の自由であるけれど、それは少なくとも歴史認識や戦争責任を将来に向けて規定するようなものではない。」
「朝日新聞などが、法律用語たる「judgment」のこの通常の語義を否定したいのならば、同条約自体の中から解釈の根拠を提示しなければならないだろう。そして、上で検討したように同条約の中には「judgment」を具体的な判決とは異なる「裁判なるもの」と解釈する余地は皆無なのである。」
「サンフランシスコ講和条約は日本と連合国の法的な戦争状態を終結させた平和条約である。平和条約は戦争状態を終結させることを主要な目的とする条約であり、けして、戦勝国側の歴史的正当性なり敗戦国の行為の善悪を定めるものではない。
つまり、平和条約としてのサンフランシスコ講和条約の使命の中核部分は条約が締結され批准されたと同時に終了したのである。
そして、サンフランシスコ講和条約を日本は完全に遵守した。
元外交官の加藤(紘一)さんに伺いたい。同条約第11条「戦争犯罪」のどこに、「靖国神社に<東京裁判の戦犯>を祀ってはならない」とか、「祀ったとしても時の内閣総理大臣が参拝してはならない」など書いてあるというのか!
まして、日本がこの条約を遵守して連合国との間の戦争状態を終結させ、独立を回復した後に現行憲法に従いどのような歴史認識を編み上げ、また、国家の正当性に関するイデオロギーを形成するかは日本国民の自由であり、豪も、戦争状態終結を目的とした条約に拘束されるものではない。」
「要は、「極東軍事裁判の判断を(日本は)、サンフランシスコ講和条約で受け入れた。そうである以上、私は靖国問題は、講和条約という国際的な約束を、日本が守り続けられるかどうかの問題だと思っている」という加藤さんの認識は法律論としては完全に間違っている。敷衍する。これまた簡単な話だ。」
「加藤さんは、「サンフランシスコ講和条約」で日本が何を受け入れたと言いたいのか? もちろん、日本は「極東軍事裁判の判断を、サンフランシスコ講和条約で受け入れた」。それは間違いない。(1)~(3)の不条理にもかかわらず日本は同条約を締結することによって(片面的にせよ旧連合国との間の)戦争状態を終了させたのである。」
「しかし、そこで日本が受け入れたものは、海外領土の放棄や日本の社会制度の改革等々占領軍から課せられた命令を誠実に遵守遂行して、占領政策の是非や非道については独立後も法律的に争わないことを約束し、戦争を終結させることに尽きる。」
「少なくとも、国際法的と外交史的にはそうである。ならば、独立後の「戦犯」なるものの処遇に関して(まして、政府から独立した宗教法人たる靖国神社に誰を祀り誰がいつ参拝しようが靖国神社と参拝者の勝手である)、サンフランシスコ講和条約や東京裁判を持ち出すことは何の意味もないのである。」
ブログ主のコメント
「法は内心には関与しません。どのようなサンフランシスコ条約11条の解釈を取ろうとも、首相の靖国神社参拝が同条違反ということはありえないのです。ただ、憲法上の「政教分離原則の違反」の可能性は残りますけれどね。そして、後者に関しても判例が取る「目的-効果基準」と「日本が継受した「政教分離」の内容」から見て違反ということはない。これでこの問題は終わりです。」2007/1/24(水) 午後 10:24
こんにちわ あなたの理解と渡部さんの理解は根本的に違うのではないですか 彼は誤訳だと言ってます その狙いを見落としているのでは
2007/9/8(土) 午後 6:13
ヒロシさん>
私は、「裁判でもって、ある国が遂行した一連の戦争の歴史的評価が決せられる」などの主張が否定される限りjudgmentsの訳語を「諸裁判」としようが「諸判決」としようがそう大した問題ではないと考えており、而して、このテクストにおいて、英文解釈としてjudgmentsを「裁判」と訳するるのが誤訳とまで言えるかどうかで渡部さんとは違うと思います。
でもね、それが「根本的」かどうかは知りませんが、【judgmentsを「歴史的な日本の戦争責任の有無や強弱の度合い」をも確定するsomethingを意味するような「裁判」ではない】とする点では、渡部さんの見解と私の主張は同じでしょう。本稿ではこの共有される部分に焦点をあてたということ。それだけのことですよ。
2007/9/8(土) 午後 8:26
WIKIPEDHIAは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84%E7%AC%AC11%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88
ブログ主の結論は
1)裁判所の構成と適用された裁判規範、そして、裁判手続きのデュープロセスの三面のすべてにおいて極東軍事裁判(東京裁判)は不適切な裁判である。
(2)東京裁判は事後法の禁止原則を犯す違法な裁判である。
(3)東京・ニュールンべルグの両裁判を通して、「平和に対する罪」「人道に対する罪」等々の新しい国際人権法上の犯罪類型が確立されたという国際制史上の意義があったとしても、上記(1)(2)の瑕疵は治癒せしめられるものではない。
(4)戦争状態の終結後も占領下の裁判の効果を将来にわたって有効とするサンフランシスコ講和条約第11条は慣習国際法に反し無効である。
少なくとも日本が独立回復後そう主張して第11条の無効を宣言することを条文自体を根拠に(日本が条約に調印し批准したことを根拠に)非難することは誰にもできない。
(5)サンフランシスコ講和条約第11条は法概念論(≒実定法における法源論)から見ても無効である。
同条約総体は現行憲法第98条第2項から法的効力を持つにせよ、第11条で「戦犯」の人権を制限し続けることは現行憲法上不可能であるからである。
(6)元来、「戦犯」なり「A級戦犯」なる法律用語は占領下においてさえ存在しない。
まして、現行憲法下ではなおさらである。これは「言葉の遊戯」ではなく、存在しない法律概念を元にある特定の人間の人権を制限することは完全に違法である。
(7)更に、昭和28年(1953年)には、「戦争犯罪による受刑者の放免に関する決議」が国会で可決され、サンフランシスコ講和条約第11条に従い(上記(1)~(6)に述べたように法論理的には、従う必要はないのだけれど、我が日本はきちんと関係諸国に仁義を通した上で、)関係諸国の同意の下に総ての「戦犯」は全員釈放された。
(8)昭和29年(1954年)からは「戦傷病者戦没者遺族等援護法」によって、「戦犯」の遺族も他の戦没者遺族と同じく遺族年金・弔慰金が支給されるようになった(翌昭和30年には、東京裁判のための拘禁期間をも支給額算定対象期間とした恩給の支給も開始された)。
以上
渡部氏の誤訳、悪訳というご指摘に対しては、ググってみて、深く考察された論考を読むことができた。余り大きな問題ではないといえる。戦争を手続きとして終わらせた、ということに大きな歴史的意義があった。
子供の頃、戦争は一部の軍人が悪かった、国民は無理に引っ張られて犠牲にされた、と教えられたように思う。東京裁判の政治的な意味は後々の教育に生かすためだったと思われる。
主権回復の日に考えることはその点である。
諸判決が違法な裁判乃至、無効な裁判の元で下された。勝者側は日本に罪をかぶせることのみの目的だった。世界は腹黒いという。アジアの植民地に独立されて、統治国は大いなる損害を被った。東京裁判はこれに対する報復措置か。
日本は戦争には負けたが、アジアを植民地から解放したことは事実。東京裁判の歴史的背景を考えると、日本は死んだふりして受諾するのも必然であった。1日も早く占領下から脱却することが国益に適う。理不尽な裁判と分かっていても、占領から解放される手続きとして受諾されたんだと思う。犠牲になられた7名の日本人は名誉の死であった。
靖国に祀られた英霊に参拝することに中国や韓国に文句をいわれる筋合いはない。
現在の日本は教科書にこうした歴史をきちんと書いて教えてゆくことが必要である。そのためにも大人のわれわれが正しい歴史認識が必要である。
沖縄と「屈辱の日」の風化 ― 2013/05/01
WEB版産経新聞から
主権回復の日、沖縄の世論から振り返る 「屈辱の日」もはや風化
産経新聞 4月30日(火)15時10分配信
【西論】編集委員・河村直哉
この国の西が穏やかでない。傍若無人な隣国のことではない。「主権回復の日」の28日、大規模な抗議、反対集会が開かれた沖縄のことである。改めてこの問題を、沖縄の世論の面から振り返る。
昭和27年のこの日、サンフランシスコ講和条約の発効で敗戦日本は独立を回復した。だが沖縄は米国の施政下に残った。政府が式典を開くことがわかってからいくつかの沖縄のメディアは、28日は「屈辱の日」であるとして反対の声を上げてきた。
「政府がそうした(沖縄の)歴史を顧みず『主権回復』をことほぐのは、県民を愚弄するような話だ」(3月13日付「琉球新報」社説)
「政府が講和条約を祝うことは、27年に及ぶ米軍統治によって県民が受けた有形無形のさまざまな犠牲や被害を無視することを意味する」(3月9日付「沖縄タイムス」社説)
最近の「琉球新報」を開いてみると、「屈辱の日」に向けた集会の記事や企画、特集が連日のように組まれている。在日米軍基地が抱えるさまざまな問題や政府への批判を「屈辱」という言葉に象徴させた、激しい反対キャンペーンである。
日本が独立を回復してからも20年沖縄が米国の施政下に置かれたこと、いまなお在日米軍施設の74%が集中して負担を強いていることを、常識ある日本人は忘れてはいない。安全保障上の困難と時間は伴っても、基地問題の解決は日本人全員の課題である。独立の日に思いを巡らせることは、沖縄を愚弄することでも、その犠牲や被害を無視することでもない。むしろ沖縄の歴史も含めて国家の主権を考え、今後の日本を建設していく日だった。
しかしこの激烈な「屈辱」キャンペーン。沖縄のいらだちを理解しようにも、度を越していまいか。国あっての地方であり個人である。
◆なぜ改憲を論じない
いくつか考えたいことがある。まず、このような状況で喜ぶのはだれか。あからさまに尖閣諸島(同県石垣市)をうかがい圧力をかけてきている中国であることは、目に見えている。
次に、在日米軍の基地問題を考えるなら長期的には、友好国との関係を良好に保ちつつ十全な自主防衛の体制を築くことを念頭に置くのが道理だ。戦力の保持を認めない現憲法の矛盾は明らかで、いま機運が高まっている通り、改憲を現実の問題として考えないといけない。ところが、沖縄のメディアは憲法改正にも反対するのである。
「宿願である改憲を通常の法改正と同様にやりやすくする。これが(安倍晋三)首相の狙いだろう。当然、憲法9条を含む抜本改正が視野にある。(略)現行憲法のどこに支障があるのか」(14日付「琉球新報」社説)
ほか、教育への政治介入反対、国会議員の靖国参拝批判などなど。これが沖縄世論であるなら、戦後日本で長く支配的だった思潮の濃縮版といわざるをえない。沖縄のメディアのみならず最近の日本を「右傾化」と評する論調が目立つが、それにならっていえば、戦後長らくの日本といまの沖縄世論を形成している考え方の傾向は「左傾化」であると、端的にいえる。
◆「左傾日本」を脱する
歴史の皮肉というべきか、左傾化は日本が独立を回復した講和条約締結のころに潮流を作った。
当時、国際情勢としては自由圏と共産圏の対立が始まっていた。日本の講和は共産国を含んだ全面的なものであるべきか、特定諸国との単独のものであるかが議論された。日本は自由主義陣営に入るのだが、昭和25年、雑誌「世界」は知識人グループ「平和問題談話会」の声明を載せている。いわゆる戦後の進歩的知識人が名を連ねた声明として、いまに知られる。
特定の国との軍事協定も基地の提供も憲法に反し認められない、単独講和はそれを生じさせるから全面講和を結ぶべきだ、というのが声明の趣旨。共産主義への近さ、護憲の態度などだけでなく、終戦までの日本をさまざまに批判する彼らの言説は、いまの沖縄と同じように左傾メディアを通じて国内に流布し、戦後日本の世論の大きな部分を形成した。改憲を唱えることはタブー視され、在日米軍や自衛隊の違憲が声高にいわれた時期が日本には長くあった。
皮肉でなくいっておくが、中国や北朝鮮の脅威が増す中、教条主義的に護憲を唱えてきた左傾メディアにも往時の筆の勢いはない。空想の平和が現実に合わないことは明らかだからだ。日本は右傾化しているのではなく、真ん中の、ふつうの国に戻ろうとしているだけである。沖縄のメディアにも気づいてほしい。国家が自力で国民や領土を守るために戦力を持つことこそ主権の問題である。米軍基地の問題を考えるなら、この点を避けられまい。
この間、沖縄のすべてが「屈辱」に染まっていたわけではない。例えば石垣市などで読まれている地方紙「八重山日報」。13日付のコラムは、こんな趣旨を書いている。
--政府式典に反対する声に県民は戸惑いを感じている。「屈辱の日」という言葉はすでに沖縄で風化しているからだ。式典の反対運動と基地問題を結びつけようという政治的思惑で、「屈辱の日」という言葉が使われている--
冷静な見方にほっとする。
以上
日本人なら誰もが気に留めている沖縄である。マスコミによってことさらに犠牲者、被害者を演出されているかに思う。沖縄には今や中国人の工作員だらけという情報も目にする。新聞報道だけを信じることができなくなっている。世論と新聞報道の乖離はやがて真実を見せると思う。報道する側はバランスをとって欲しい。
追記 WEB版産経新聞から
「主権回復の日」に見る沖縄世論 反発一辺倒へ嫌悪…変化の兆し
配信元:
2013/03/22 13:56更新
このニュース記事のカテゴリは政治もです。
この記事に関連するフォト・情報記事本文 【沖縄の風】
沖縄には、とにもかくにも反対せずにはおられないグループが跋扈(ばっこ)しているようだ。米軍普天間飛行場の移設先とされる名護市辺野古海域の埋め立て申請に反対していたかと思うと、政府主催の「主権回復の日」式典が4月28日に開かれることが決まるやいなや今度は式典反対ののろしを上げている。だが、一方で、常に反発の拳を上げる反対派に反発する声も顕在化するなど、沖縄世論の底流に変化の兆しを感じる。
◆ナンセンスな「総意」
14日の県議会予算委員会。「(4月28日を)未来に向け希望に満ちた歴史をつくっていくための決意を新たにする日としてとらえたい」とする仲井真弘多知事の談話に野党側がかみついた。
「屈辱の日がなぜ、未来に向け希望に満ちた歴史をつくる決意を新たにする日という表現になるのか」
「主権回復の日」式典開催が決まって以来、沖縄では地元メディアや革新系議員、市民団体らを中心に、式典開催撤回の声を上げている。
こうした言動は沖縄の総意として全国に発信されているが、ある保守系議員は声を潜めて言う。
「全くナンセンス。4月28日は沖縄にとっても大切な日。この日があるから、昭和47年5月15日に祖国に復帰できた。その意味を保守も革新もメディアも考えていない。反対する顔ぶれも米軍基地や自衛隊に反対するメンバーと同じだ」
以上
主権回復の日、沖縄の世論から振り返る 「屈辱の日」もはや風化
産経新聞 4月30日(火)15時10分配信
【西論】編集委員・河村直哉
この国の西が穏やかでない。傍若無人な隣国のことではない。「主権回復の日」の28日、大規模な抗議、反対集会が開かれた沖縄のことである。改めてこの問題を、沖縄の世論の面から振り返る。
昭和27年のこの日、サンフランシスコ講和条約の発効で敗戦日本は独立を回復した。だが沖縄は米国の施政下に残った。政府が式典を開くことがわかってからいくつかの沖縄のメディアは、28日は「屈辱の日」であるとして反対の声を上げてきた。
「政府がそうした(沖縄の)歴史を顧みず『主権回復』をことほぐのは、県民を愚弄するような話だ」(3月13日付「琉球新報」社説)
「政府が講和条約を祝うことは、27年に及ぶ米軍統治によって県民が受けた有形無形のさまざまな犠牲や被害を無視することを意味する」(3月9日付「沖縄タイムス」社説)
最近の「琉球新報」を開いてみると、「屈辱の日」に向けた集会の記事や企画、特集が連日のように組まれている。在日米軍基地が抱えるさまざまな問題や政府への批判を「屈辱」という言葉に象徴させた、激しい反対キャンペーンである。
日本が独立を回復してからも20年沖縄が米国の施政下に置かれたこと、いまなお在日米軍施設の74%が集中して負担を強いていることを、常識ある日本人は忘れてはいない。安全保障上の困難と時間は伴っても、基地問題の解決は日本人全員の課題である。独立の日に思いを巡らせることは、沖縄を愚弄することでも、その犠牲や被害を無視することでもない。むしろ沖縄の歴史も含めて国家の主権を考え、今後の日本を建設していく日だった。
しかしこの激烈な「屈辱」キャンペーン。沖縄のいらだちを理解しようにも、度を越していまいか。国あっての地方であり個人である。
◆なぜ改憲を論じない
いくつか考えたいことがある。まず、このような状況で喜ぶのはだれか。あからさまに尖閣諸島(同県石垣市)をうかがい圧力をかけてきている中国であることは、目に見えている。
次に、在日米軍の基地問題を考えるなら長期的には、友好国との関係を良好に保ちつつ十全な自主防衛の体制を築くことを念頭に置くのが道理だ。戦力の保持を認めない現憲法の矛盾は明らかで、いま機運が高まっている通り、改憲を現実の問題として考えないといけない。ところが、沖縄のメディアは憲法改正にも反対するのである。
「宿願である改憲を通常の法改正と同様にやりやすくする。これが(安倍晋三)首相の狙いだろう。当然、憲法9条を含む抜本改正が視野にある。(略)現行憲法のどこに支障があるのか」(14日付「琉球新報」社説)
ほか、教育への政治介入反対、国会議員の靖国参拝批判などなど。これが沖縄世論であるなら、戦後日本で長く支配的だった思潮の濃縮版といわざるをえない。沖縄のメディアのみならず最近の日本を「右傾化」と評する論調が目立つが、それにならっていえば、戦後長らくの日本といまの沖縄世論を形成している考え方の傾向は「左傾化」であると、端的にいえる。
◆「左傾日本」を脱する
歴史の皮肉というべきか、左傾化は日本が独立を回復した講和条約締結のころに潮流を作った。
当時、国際情勢としては自由圏と共産圏の対立が始まっていた。日本の講和は共産国を含んだ全面的なものであるべきか、特定諸国との単独のものであるかが議論された。日本は自由主義陣営に入るのだが、昭和25年、雑誌「世界」は知識人グループ「平和問題談話会」の声明を載せている。いわゆる戦後の進歩的知識人が名を連ねた声明として、いまに知られる。
特定の国との軍事協定も基地の提供も憲法に反し認められない、単独講和はそれを生じさせるから全面講和を結ぶべきだ、というのが声明の趣旨。共産主義への近さ、護憲の態度などだけでなく、終戦までの日本をさまざまに批判する彼らの言説は、いまの沖縄と同じように左傾メディアを通じて国内に流布し、戦後日本の世論の大きな部分を形成した。改憲を唱えることはタブー視され、在日米軍や自衛隊の違憲が声高にいわれた時期が日本には長くあった。
皮肉でなくいっておくが、中国や北朝鮮の脅威が増す中、教条主義的に護憲を唱えてきた左傾メディアにも往時の筆の勢いはない。空想の平和が現実に合わないことは明らかだからだ。日本は右傾化しているのではなく、真ん中の、ふつうの国に戻ろうとしているだけである。沖縄のメディアにも気づいてほしい。国家が自力で国民や領土を守るために戦力を持つことこそ主権の問題である。米軍基地の問題を考えるなら、この点を避けられまい。
この間、沖縄のすべてが「屈辱」に染まっていたわけではない。例えば石垣市などで読まれている地方紙「八重山日報」。13日付のコラムは、こんな趣旨を書いている。
--政府式典に反対する声に県民は戸惑いを感じている。「屈辱の日」という言葉はすでに沖縄で風化しているからだ。式典の反対運動と基地問題を結びつけようという政治的思惑で、「屈辱の日」という言葉が使われている--
冷静な見方にほっとする。
以上
日本人なら誰もが気に留めている沖縄である。マスコミによってことさらに犠牲者、被害者を演出されているかに思う。沖縄には今や中国人の工作員だらけという情報も目にする。新聞報道だけを信じることができなくなっている。世論と新聞報道の乖離はやがて真実を見せると思う。報道する側はバランスをとって欲しい。
追記 WEB版産経新聞から
「主権回復の日」に見る沖縄世論 反発一辺倒へ嫌悪…変化の兆し
配信元:
2013/03/22 13:56更新
このニュース記事のカテゴリは政治もです。
この記事に関連するフォト・情報記事本文 【沖縄の風】
沖縄には、とにもかくにも反対せずにはおられないグループが跋扈(ばっこ)しているようだ。米軍普天間飛行場の移設先とされる名護市辺野古海域の埋め立て申請に反対していたかと思うと、政府主催の「主権回復の日」式典が4月28日に開かれることが決まるやいなや今度は式典反対ののろしを上げている。だが、一方で、常に反発の拳を上げる反対派に反発する声も顕在化するなど、沖縄世論の底流に変化の兆しを感じる。
◆ナンセンスな「総意」
14日の県議会予算委員会。「(4月28日を)未来に向け希望に満ちた歴史をつくっていくための決意を新たにする日としてとらえたい」とする仲井真弘多知事の談話に野党側がかみついた。
「屈辱の日がなぜ、未来に向け希望に満ちた歴史をつくる決意を新たにする日という表現になるのか」
「主権回復の日」式典開催が決まって以来、沖縄では地元メディアや革新系議員、市民団体らを中心に、式典開催撤回の声を上げている。
こうした言動は沖縄の総意として全国に発信されているが、ある保守系議員は声を潜めて言う。
「全くナンセンス。4月28日は沖縄にとっても大切な日。この日があるから、昭和47年5月15日に祖国に復帰できた。その意味を保守も革新もメディアも考えていない。反対する顔ぶれも米軍基地や自衛隊に反対するメンバーと同じだ」
以上
主権回復の日と沖縄 ― 2013/05/02
「ねずさんのひとりごと」のコメントから「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成25年(2013)4月11日(木曜日) 通巻第3921号の読者の声へ飛んできました。
沖縄がなぜ異様に騒がしいのかがよく理解できます。マスコミでは得られない情報なので転載させていただきました。
主権回復の意義は想像以上に大きいものがあります。地層に例えれば、断層です。ボロボロと崩壊し易く、不安定です。現代史の断層部分です。いや歴史ではなく現実です。
読者の声2)またぞろでてきた沖縄の反日運動の淵源はその人口構成にあります。大東亜戦争終戦の時点の沖縄県の人口は約30万人でした。今は140万人を超えています。
日本全体では、5割くらいしか増えていません。
ここに沖縄の反日運動の淵源があります。大東亜戦争終戦の時点で 日本に韓国・朝鮮系の住民が約200万にいました。
日本人、日本国民ではなく住民というのは、ポツダム宣言受諾の系(Corollary)として、韓国・朝鮮系日本人は日本国籍を喪失したからです。法理(juriprudence)の観点からは、いろいろな意見がありますが、概括的に言えばそうなります。
200万のほとんどは朝鮮半島に戻り日本への定住を決めたのはその約1割でした。
その後、日本政府が受諾したポツダム宣言には全く記載のないことですが、占領軍は日本の警察権は日本国民にしか及ばないとし、占領軍兵士にくわえそれら日本に住んでいた第三国人にも日本の警察権はおよばないとしました。
その結果、第三国人による犯罪が頻発し、見かねて止めようとした警察官が殺されるという事件が頻発しました。
そこで、昭和21年ころ大量の人間が朝鮮半島から日本にわたってきました。違法行為を行っても司法権が及ばないとなれば、金儲けは簡単です。彼らが日本に来てやり始めたのは密輸、密造酒の製造販売等々です。
そして、この違法のビジネスを行っても逮捕されないという好条件においてすらビジネスで成功できなかった人たちが「その他」の職業につきました。こうして大儲けした連中を、終戦直後に日本に定住することを決意した韓国・朝鮮系の人たちは内心馬鹿にしていますが、同胞故に大ぴらに批判することはしません。
おそらく韓国系・朝鮮系の日本住人の3分の2が上記の後から渡ってきた人たちです。
サンフランシスコ条約が締結され日本が独立し警察権を確立するに際して、上記の後で渡ってきた日本住民とくに「その他」の職業についていた人たちは、「やばい」状況になり、もともとの日本人で「その他」の職業についていた人たちともども、日本の主権が及ばない沖縄に大量に流れました。
沖縄には二つの彼らにとって都合の良い状況がありました。
1.米軍基地の近くで米軍相手の商売のチャンスが多くあった。だからこそ彼らは基地の近くに住み、「基地の近くに住む痛み」を感じています。それが、補償を求める根拠となりました。
2.沖縄の土地台帳の大部分は空襲で焼けてしまいました。現在日本政府が米軍に代わって米軍基地の地代を地主に払っていますが、その面積は実際に基地がある面積の約10倍です。つまり、あとからやってきた人たちが勝手に地主面をして地代を要求しても米軍は日本政府が払うのだからホイホイと認めた結果です。
こういう状況を考えれば、沖縄の世論がどうやって形成されているか、沖縄のマスコミがどういうものか容易に推察できます。
さらに悪いことは、昭和21年に日本政府が国会に終戦前から日本に住んでいた在日三国人に本人が希望すれば無条件で日本国籍を与えるという法案を提出しようとしたとき李韓国大統領が韓国の国益に反するとして占領軍に日本の政府に圧力をかけて法案提出を占領軍がやめさせるよう占領軍に依頼した背景も理解できます。
ただし、理解するためには日本的良識(大和魂)を一時捨てて考える必要があります。
このように終戦から数年間の状況を子細に観察すれば、如何に沖縄の世論を正常化することが難しいか分かります。
沖縄のマスコミもこの流れで形成されてきました。
(ST生、千葉)
(宮崎正弘のコメント)そして中国の新聞、とりわけ在日中国人の新聞を読んでいて驚きます。
一部に「琉球独立と釣魚島」問題が論じられているのですが、日本ででている『沖縄が独立する日』『沖縄独立宣言』などが意図的に大きく取り上げられ、要するに沖縄独立が中国の利益に結びつくと声援風です(たとえば『網博週報』、13年4月5日号)。
なぜか。沖縄が独立し在日米軍を追い出せば、独立国家・沖縄と新しく安保条約を結ぶのは中国でしょうから。
沖縄知事は、いまや琉球王のごとく、日本の首相と「平等」、あるいは対決構造としてマスコミが描き出しています。
これらもたいそう危険は兆候ですね。
沖縄がなぜ異様に騒がしいのかがよく理解できます。マスコミでは得られない情報なので転載させていただきました。
主権回復の意義は想像以上に大きいものがあります。地層に例えれば、断層です。ボロボロと崩壊し易く、不安定です。現代史の断層部分です。いや歴史ではなく現実です。
読者の声2)またぞろでてきた沖縄の反日運動の淵源はその人口構成にあります。大東亜戦争終戦の時点の沖縄県の人口は約30万人でした。今は140万人を超えています。
日本全体では、5割くらいしか増えていません。
ここに沖縄の反日運動の淵源があります。大東亜戦争終戦の時点で 日本に韓国・朝鮮系の住民が約200万にいました。
日本人、日本国民ではなく住民というのは、ポツダム宣言受諾の系(Corollary)として、韓国・朝鮮系日本人は日本国籍を喪失したからです。法理(juriprudence)の観点からは、いろいろな意見がありますが、概括的に言えばそうなります。
200万のほとんどは朝鮮半島に戻り日本への定住を決めたのはその約1割でした。
その後、日本政府が受諾したポツダム宣言には全く記載のないことですが、占領軍は日本の警察権は日本国民にしか及ばないとし、占領軍兵士にくわえそれら日本に住んでいた第三国人にも日本の警察権はおよばないとしました。
その結果、第三国人による犯罪が頻発し、見かねて止めようとした警察官が殺されるという事件が頻発しました。
そこで、昭和21年ころ大量の人間が朝鮮半島から日本にわたってきました。違法行為を行っても司法権が及ばないとなれば、金儲けは簡単です。彼らが日本に来てやり始めたのは密輸、密造酒の製造販売等々です。
そして、この違法のビジネスを行っても逮捕されないという好条件においてすらビジネスで成功できなかった人たちが「その他」の職業につきました。こうして大儲けした連中を、終戦直後に日本に定住することを決意した韓国・朝鮮系の人たちは内心馬鹿にしていますが、同胞故に大ぴらに批判することはしません。
おそらく韓国系・朝鮮系の日本住人の3分の2が上記の後から渡ってきた人たちです。
サンフランシスコ条約が締結され日本が独立し警察権を確立するに際して、上記の後で渡ってきた日本住民とくに「その他」の職業についていた人たちは、「やばい」状況になり、もともとの日本人で「その他」の職業についていた人たちともども、日本の主権が及ばない沖縄に大量に流れました。
沖縄には二つの彼らにとって都合の良い状況がありました。
1.米軍基地の近くで米軍相手の商売のチャンスが多くあった。だからこそ彼らは基地の近くに住み、「基地の近くに住む痛み」を感じています。それが、補償を求める根拠となりました。
2.沖縄の土地台帳の大部分は空襲で焼けてしまいました。現在日本政府が米軍に代わって米軍基地の地代を地主に払っていますが、その面積は実際に基地がある面積の約10倍です。つまり、あとからやってきた人たちが勝手に地主面をして地代を要求しても米軍は日本政府が払うのだからホイホイと認めた結果です。
こういう状況を考えれば、沖縄の世論がどうやって形成されているか、沖縄のマスコミがどういうものか容易に推察できます。
さらに悪いことは、昭和21年に日本政府が国会に終戦前から日本に住んでいた在日三国人に本人が希望すれば無条件で日本国籍を与えるという法案を提出しようとしたとき李韓国大統領が韓国の国益に反するとして占領軍に日本の政府に圧力をかけて法案提出を占領軍がやめさせるよう占領軍に依頼した背景も理解できます。
ただし、理解するためには日本的良識(大和魂)を一時捨てて考える必要があります。
このように終戦から数年間の状況を子細に観察すれば、如何に沖縄の世論を正常化することが難しいか分かります。
沖縄のマスコミもこの流れで形成されてきました。
(ST生、千葉)
(宮崎正弘のコメント)そして中国の新聞、とりわけ在日中国人の新聞を読んでいて驚きます。
一部に「琉球独立と釣魚島」問題が論じられているのですが、日本ででている『沖縄が独立する日』『沖縄独立宣言』などが意図的に大きく取り上げられ、要するに沖縄独立が中国の利益に結びつくと声援風です(たとえば『網博週報』、13年4月5日号)。
なぜか。沖縄が独立し在日米軍を追い出せば、独立国家・沖縄と新しく安保条約を結ぶのは中国でしょうから。
沖縄知事は、いまや琉球王のごとく、日本の首相と「平等」、あるいは対決構造としてマスコミが描き出しています。
これらもたいそう危険は兆候ですね。
宮脇淳子『真実の満洲史』の断片 ― 2013/05/03
amazonのコメントから一部を転載。
「宮脇氏が、読者に、是非、考えていただきたいと願うことがある。
それは、多分、「台湾と朝鮮と満洲は日本史として考えるべき」という34ページ以下の部分だろう。
「1895~1945年までの50年間の台湾」「1910~1945年までの朝鮮」これは明らかに日本史の一部である。
満洲についても「1905~1945年までの期間」は、日本の影響下にある「傀儡国家」であり、多くの日本人の努力と日本の財力が国家建設に注ぎ込まれたのだから、と著者は言う。(著者はこの「傀儡国家」という言葉をネガティブには捉えていない)
この問題は、巻末でも、もう一度繰り返される。
以上
購入するときに中国史のコーナーを探していた。見つからないので検索機で検索すると日本史の書棚に分類されていた。
満洲史は中国の歴史ではなく、日本の歴史という指摘は後から肩をポンと叩かれたみたい。知っていそうで知らないこと。
「宮脇氏が、読者に、是非、考えていただきたいと願うことがある。
それは、多分、「台湾と朝鮮と満洲は日本史として考えるべき」という34ページ以下の部分だろう。
「1895~1945年までの50年間の台湾」「1910~1945年までの朝鮮」これは明らかに日本史の一部である。
満洲についても「1905~1945年までの期間」は、日本の影響下にある「傀儡国家」であり、多くの日本人の努力と日本の財力が国家建設に注ぎ込まれたのだから、と著者は言う。(著者はこの「傀儡国家」という言葉をネガティブには捉えていない)
この問題は、巻末でも、もう一度繰り返される。
以上
購入するときに中国史のコーナーを探していた。見つからないので検索機で検索すると日本史の書棚に分類されていた。
満洲史は中国の歴史ではなく、日本の歴史という指摘は後から肩をポンと叩かれたみたい。知っていそうで知らないこと。
憲法9条について ― 2013/05/04
改憲の動きが大きなうねりとなってきました。
平和憲法、占領憲法、護憲、改憲、改憲ではなく廃棄せよ、という廃憲論、明治憲法との連続性がないという指摘も、そこで出てきたのが宮沢俊義の八月革命説、押し付け憲法論など様々な学説意見主張を見ます。
憲法9条についても違憲合法論が台頭しました。社会党の石橋委員長が声高に主張されていた。当時はおかしなことをいうな、と思っていた。東大法学部教授だった小林直樹教授の理論だった。
非武装・防衛は理想主義であって現実的ではない。こちらが丸腰だから相手が襲って来ない保障はない。
時代が変われば憲法も変わらねばなるまい。
現実は中国共産党の脅威が増している。尖閣諸島を本気で取りに来ている。韓国には竹島を実効支配された。旧ソ連には北方領土を取られ、実効支配が進んでいる。政治力の背景には戦力がなければなるまい。
これまで戦争を免れてきたのは第一に日米安保条約のお陰であった。9条を補完する広義の日本国憲法といえる。日本をアメリカの属国という人もいるが、アメリカにとって重要なパートナーであることに違いはない。ただただ、コバンザメみたいにくっついているわけではない。
歴史的には、共産主義の国が起した朝鮮戦争によって、アメリカは日本を丸腰にしたことを後悔した。防共のためには日本再軍備を吉田茂に言いつけた。吉田茂は日本国憲法9条を以って、社会党に反対させ、日本再軍備に抵抗した。そして自衛隊が生まれた。が、海外派兵はできない。
朝鮮戦争ではアメリカ軍が先頭にたって闘わざるを得なかった。アメリカの政策ミスは日本と戦争したこと、憲法を押し付けたことであった。日本に勝利していいことはなかったのではないか。アジアのことは日本に主導権を握らせておけば良かったのである。
特に満州国をソ連に取られ、中国共産党に譲渡されたことは大きな損失だった。アメリカが日本を叩いたために起きたことである。日本を叩いてアメリカに利益があっただろうか。アジアの共産化を招き、いいことは一つもなかったと思う。
日本は9条によって、米ソ冷戦の中で、漁夫の利を得てきた。戦争しなくても良いので軍備は要らないし、アメリカは多くの日本製品を購入してくれた。瀕死状態だったトヨタは朝鮮戦争でトラックが売れて大いに儲けた。その儲けで借金を返済し、日本初の乗用車専用工場の元町工場を作ることができた。その後の発展は書くまでもない。
世界が日本の9条に学んで軍備を最小限に縮めるならこんな良いことはない。尖閣から沖縄へと中国の日本侵略構想がはっきりしてきた今、再軍備やむなし、と思うのはわたしだけではあるまい。
平和憲法、占領憲法、護憲、改憲、改憲ではなく廃棄せよ、という廃憲論、明治憲法との連続性がないという指摘も、そこで出てきたのが宮沢俊義の八月革命説、押し付け憲法論など様々な学説意見主張を見ます。
憲法9条についても違憲合法論が台頭しました。社会党の石橋委員長が声高に主張されていた。当時はおかしなことをいうな、と思っていた。東大法学部教授だった小林直樹教授の理論だった。
非武装・防衛は理想主義であって現実的ではない。こちらが丸腰だから相手が襲って来ない保障はない。
時代が変われば憲法も変わらねばなるまい。
現実は中国共産党の脅威が増している。尖閣諸島を本気で取りに来ている。韓国には竹島を実効支配された。旧ソ連には北方領土を取られ、実効支配が進んでいる。政治力の背景には戦力がなければなるまい。
これまで戦争を免れてきたのは第一に日米安保条約のお陰であった。9条を補完する広義の日本国憲法といえる。日本をアメリカの属国という人もいるが、アメリカにとって重要なパートナーであることに違いはない。ただただ、コバンザメみたいにくっついているわけではない。
歴史的には、共産主義の国が起した朝鮮戦争によって、アメリカは日本を丸腰にしたことを後悔した。防共のためには日本再軍備を吉田茂に言いつけた。吉田茂は日本国憲法9条を以って、社会党に反対させ、日本再軍備に抵抗した。そして自衛隊が生まれた。が、海外派兵はできない。
朝鮮戦争ではアメリカ軍が先頭にたって闘わざるを得なかった。アメリカの政策ミスは日本と戦争したこと、憲法を押し付けたことであった。日本に勝利していいことはなかったのではないか。アジアのことは日本に主導権を握らせておけば良かったのである。
特に満州国をソ連に取られ、中国共産党に譲渡されたことは大きな損失だった。アメリカが日本を叩いたために起きたことである。日本を叩いてアメリカに利益があっただろうか。アジアの共産化を招き、いいことは一つもなかったと思う。
日本は9条によって、米ソ冷戦の中で、漁夫の利を得てきた。戦争しなくても良いので軍備は要らないし、アメリカは多くの日本製品を購入してくれた。瀕死状態だったトヨタは朝鮮戦争でトラックが売れて大いに儲けた。その儲けで借金を返済し、日本初の乗用車専用工場の元町工場を作ることができた。その後の発展は書くまでもない。
世界が日本の9条に学んで軍備を最小限に縮めるならこんな良いことはない。尖閣から沖縄へと中国の日本侵略構想がはっきりしてきた今、再軍備やむなし、と思うのはわたしだけではあるまい。
宮脇淳子『真実の満洲史』の断片② ― 2013/05/05
GWのたっぷりある時間はやはり特別です。毎日が日曜のようなものですが、世間が動いていると精神的には落ち着かないものです。表題の本をじっくり読ませていただきました。心の琴線にふれるセンテンスを引きながら満洲における日本史を考えていきます。
本書の構成は全体で317ページのボリュームがあります。ほどほどの厚みです。
はじめに(少し長い前書き)・・・・私たちはなぜ歴史を学ぶのか
まえがきだけで40ページを当てています。12.6%です。かっこ書きの通り長いですが、マルクス主義史観の批判し、政治的な主張≠史実の追及を宣言しています。歴史学界で孤独な戦いを強いられている宮脇史観の檄文です。ですからよくある権威からの推薦文もありません。
序章 満洲とは何か 41
ここも差し引き40ページ当てています。同じく12.6%です。満州ではなく、満洲です。これは高橋景保という日本人が「日本辺界略図」で記したそうです。巻末にある年表は1809年から始まりますが、出版年だったのです。あと本書を読み解くための基本的な知識を展開しています。
第1章 日清戦争から中華民国建国まで 81
82ページから131ページまで、差し引き49ページです。15.4%です。目次の最初に満洲の激動の歴史は日清戦争から始まる、と見出しが起っています。
日本はロシアの南下政策を脅威と感じて日露戦争に及んだのですが、
P108からP109の
「日露戦争で満洲や朝鮮への野望を打ち砕かれたロシアは、日本に仕返ししようと待ち構えていました。日本が恐ろしいと同時に憎くてたまらず、ソ連の革命にシベリア出兵で干渉されたこともあり、その恨みが1945年の終戦時、満洲で日本の女性、子どもまで虐殺したことへつながっています。
日本人は何もしていないのに被害を受けたと思っています。以下略。私から言わせれば、「あなたたち、自分がいかに世の中を変えたのか、もう少し自覚しなさい」というところです。中略。
今の中国人からすると、日本人が「日本は平和憲法で、何もしていません」と言っているは、とても噓臭く見えるようです。中略。中国人からすると、日本人全員が嘘つきに見えるようです。」
確かに、平和憲法を堅守といいながら、中国に匹敵する軍事力を備えている日本です。あとは憲法の手続きの問題だけです。中国や韓国から見ると誰が本当のことを言っているのか分からないそうです。それは言論の自由、報道の自由があるし、選挙があるから、一転して、社会が変わってしまう。彼らには信じがたい出来事に思います。
中国共産党支配の一枚岩の言論統制下で臨戦体制の国家とは違うのです。
口では左翼も平和憲法、中国へ謝罪をと言いますが、本当は自衛隊すらも解散してから言え、というところでしょう。ですから政権の座にない、ということは国民に支持されていない左翼も信用されていないのではないか。
P130に「辛亥革命は本当は「革命」ではありませんでした。」とある。民衆が蜂起したわけではないこと、清朝の軍隊の一部が武装蜂起したこと、これを革命と呼んだのは日本人です、と。P131の最後に「これは革命ではなく禅譲です。」と自説を述べる。
ウィキペディアの説明で禅譲とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E8%AD%B2
又、中国でよく使われる易姓革命とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E5%A7%93%E9%9D%A9%E5%91%BD
最近、日本でうるさくなった維新の事は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%96%B0
革命か禅譲かは解釈の違いで瑣末的だと思いました。
第2章 中華民国建国以後、満州国建国まで 133
134ページから213ページまで差し引き79ページあり、24.9%です。
P200
「満洲での日本人のもめごとといっても、大体が日本人となった朝鮮人が起こしたものです。中略。もめるのは基本的に日本人になった朝鮮人で、「俺は日本人だ」と言って、現地で威張ったようです。」
P201
「満州事変が起きた原因は、中国人から「ここは中国だから出て行け、日本の侵略だ。補償なんかしない。とにかく裸で出て行け」と言われ、日本人としては「それはないでしょう。条約違反じゃないか」という感情になったことにあります。」
P204の
「そもそも、中華民国は自分達は何もする気がなく、国際社会に訴えて日本が悪いということを認めさせようとしていました。何度も言いますが、満洲は日露戦争のときは、まだ中国ではありませんでした。それを辛亥革命後に中国だと言い出したのです。そう言い換えたことが、日本と中華民国との紛争の原因なのですが、これをヨーロッパでは認めないのです。」
P206「満洲人のアイデンティティは、辛亥革命後は、ほとんど消滅してしまっています。だからといって、満洲は漢族の土地かといえば、それは全然、別の問題です」
P205の
「私も同じ意見です。中国人と喧嘩しろということではないのです。見方や感覚が全く違うので、合わせようと思うことを止めればいいのです。
日中の間には、世界観の違いが抜きがたく溝となって横たわっています。戦後われわれ日本人は、アメリカに対して感情と理性をわけてつき合ってきましたが、中国に対しても、感情を抜きに付き合う必要があることを、日本人は知らなければならないと思うのです。」
P211
「この世の中、国際連盟から国際連合を含めて、いかにも政治家が平和のためにネゴシエーションしているように見えますが、実際には軍事力が物事を決定します。中国史などを見ていると、もうそれしかないですね」 ネゴシエーション=交渉
P213
「日本がつよいのは軍事力だけで、満洲事変のときにも、ソ連もアメリカも日本軍が怖くてかかってこれなかったのです。それでも日本が負けるのは、本当にインテリジェンス(注1)が弱いとしか言いようがありません」
注1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9
文意は諜報活動でしょう。
歴史を裁くな、という。後世から見ると反省ばかりが先立ちます。なんでよく知らないシナに出かけて金儲けしに行ったのか。田舎では食えないが東京に行けば何とかなるという感覚で広大な大陸に行ったのでしょうか。
満蒙開拓団は塗炭の苦しみを味わったという。
戦前、辛亥革命に先立つ10年前の1901年、東亜同文書院が上海に開学されました。シナとの貿易のための人材養成機関です。1945年の終戦で閉鎖しましたが卒業生は商社マン、外交官、ジャーナリストなどで活躍したそうです。こうしたコスモポリタンの養成が必要かも知れません。
中国史も満洲史も混沌という言葉が良く似合います。満洲史は日本史とするのですが、国境を接した中国との交渉史でもある。
日本人には、一衣帯水の国、杜甫や李白、論語を生んだ文化の先進国という劣等意識が根底にある。歌人の土屋文明は芭蕉の俳句すら日本古来の文学と思うなよ、という。芭蕉にも杜甫の影響を見ているのである。当時の日本人は明治維新になって初めて実際の中国人に接したのである。それからイメージと実際の落差に悩むことになる。
P209の「多数決というのは、悪い感情を暴走させるシステム」も同感。中略、「マスコミの責任も大きいですが、同時に普通の人、大衆は、知らないことには口を出すべきではない」は、日本のような大衆国家では、通らない。優秀な専門家だけでこっそりやれば反発がでる。この点で、女性らしい了見の狭さを感じる。或いは専門バカというのか。本書には著者の主観が強く出ている。歴史を編んでくるとそう思いたくなるのは理解できる。
人間は間違いを犯す。個人的にどんな優秀な人間であっても組織に組み込まれた途端に変わってしまう。大衆もおなじである。煽られやすいが、束になって巻き返すのも大衆の力である。歴史とは間違いの集積と知人が言っていた。個人、団体、民族、国、連合など。
モンゴルの山に登った仲間の記念写真を見せてもらうと、現地人と並んで写っているが、だれもが日本人に見える。黄色人種同士というのは一種の安心感がある。赤ちゃんの尻には蒙古斑が出る。この人類学的な見地からみてもアジアで戦争が起きて欲しくない、と誰もが願う。
本書の構成は全体で317ページのボリュームがあります。ほどほどの厚みです。
はじめに(少し長い前書き)・・・・私たちはなぜ歴史を学ぶのか
まえがきだけで40ページを当てています。12.6%です。かっこ書きの通り長いですが、マルクス主義史観の批判し、政治的な主張≠史実の追及を宣言しています。歴史学界で孤独な戦いを強いられている宮脇史観の檄文です。ですからよくある権威からの推薦文もありません。
序章 満洲とは何か 41
ここも差し引き40ページ当てています。同じく12.6%です。満州ではなく、満洲です。これは高橋景保という日本人が「日本辺界略図」で記したそうです。巻末にある年表は1809年から始まりますが、出版年だったのです。あと本書を読み解くための基本的な知識を展開しています。
第1章 日清戦争から中華民国建国まで 81
82ページから131ページまで、差し引き49ページです。15.4%です。目次の最初に満洲の激動の歴史は日清戦争から始まる、と見出しが起っています。
日本はロシアの南下政策を脅威と感じて日露戦争に及んだのですが、
P108からP109の
「日露戦争で満洲や朝鮮への野望を打ち砕かれたロシアは、日本に仕返ししようと待ち構えていました。日本が恐ろしいと同時に憎くてたまらず、ソ連の革命にシベリア出兵で干渉されたこともあり、その恨みが1945年の終戦時、満洲で日本の女性、子どもまで虐殺したことへつながっています。
日本人は何もしていないのに被害を受けたと思っています。以下略。私から言わせれば、「あなたたち、自分がいかに世の中を変えたのか、もう少し自覚しなさい」というところです。中略。
今の中国人からすると、日本人が「日本は平和憲法で、何もしていません」と言っているは、とても噓臭く見えるようです。中略。中国人からすると、日本人全員が嘘つきに見えるようです。」
確かに、平和憲法を堅守といいながら、中国に匹敵する軍事力を備えている日本です。あとは憲法の手続きの問題だけです。中国や韓国から見ると誰が本当のことを言っているのか分からないそうです。それは言論の自由、報道の自由があるし、選挙があるから、一転して、社会が変わってしまう。彼らには信じがたい出来事に思います。
中国共産党支配の一枚岩の言論統制下で臨戦体制の国家とは違うのです。
口では左翼も平和憲法、中国へ謝罪をと言いますが、本当は自衛隊すらも解散してから言え、というところでしょう。ですから政権の座にない、ということは国民に支持されていない左翼も信用されていないのではないか。
P130に「辛亥革命は本当は「革命」ではありませんでした。」とある。民衆が蜂起したわけではないこと、清朝の軍隊の一部が武装蜂起したこと、これを革命と呼んだのは日本人です、と。P131の最後に「これは革命ではなく禅譲です。」と自説を述べる。
ウィキペディアの説明で禅譲とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E8%AD%B2
又、中国でよく使われる易姓革命とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E5%A7%93%E9%9D%A9%E5%91%BD
最近、日本でうるさくなった維新の事は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%96%B0
革命か禅譲かは解釈の違いで瑣末的だと思いました。
第2章 中華民国建国以後、満州国建国まで 133
134ページから213ページまで差し引き79ページあり、24.9%です。
P200
「満洲での日本人のもめごとといっても、大体が日本人となった朝鮮人が起こしたものです。中略。もめるのは基本的に日本人になった朝鮮人で、「俺は日本人だ」と言って、現地で威張ったようです。」
P201
「満州事変が起きた原因は、中国人から「ここは中国だから出て行け、日本の侵略だ。補償なんかしない。とにかく裸で出て行け」と言われ、日本人としては「それはないでしょう。条約違反じゃないか」という感情になったことにあります。」
P204の
「そもそも、中華民国は自分達は何もする気がなく、国際社会に訴えて日本が悪いということを認めさせようとしていました。何度も言いますが、満洲は日露戦争のときは、まだ中国ではありませんでした。それを辛亥革命後に中国だと言い出したのです。そう言い換えたことが、日本と中華民国との紛争の原因なのですが、これをヨーロッパでは認めないのです。」
P206「満洲人のアイデンティティは、辛亥革命後は、ほとんど消滅してしまっています。だからといって、満洲は漢族の土地かといえば、それは全然、別の問題です」
P205の
「私も同じ意見です。中国人と喧嘩しろということではないのです。見方や感覚が全く違うので、合わせようと思うことを止めればいいのです。
日中の間には、世界観の違いが抜きがたく溝となって横たわっています。戦後われわれ日本人は、アメリカに対して感情と理性をわけてつき合ってきましたが、中国に対しても、感情を抜きに付き合う必要があることを、日本人は知らなければならないと思うのです。」
P211
「この世の中、国際連盟から国際連合を含めて、いかにも政治家が平和のためにネゴシエーションしているように見えますが、実際には軍事力が物事を決定します。中国史などを見ていると、もうそれしかないですね」 ネゴシエーション=交渉
P213
「日本がつよいのは軍事力だけで、満洲事変のときにも、ソ連もアメリカも日本軍が怖くてかかってこれなかったのです。それでも日本が負けるのは、本当にインテリジェンス(注1)が弱いとしか言いようがありません」
注1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9
文意は諜報活動でしょう。
歴史を裁くな、という。後世から見ると反省ばかりが先立ちます。なんでよく知らないシナに出かけて金儲けしに行ったのか。田舎では食えないが東京に行けば何とかなるという感覚で広大な大陸に行ったのでしょうか。
満蒙開拓団は塗炭の苦しみを味わったという。
戦前、辛亥革命に先立つ10年前の1901年、東亜同文書院が上海に開学されました。シナとの貿易のための人材養成機関です。1945年の終戦で閉鎖しましたが卒業生は商社マン、外交官、ジャーナリストなどで活躍したそうです。こうしたコスモポリタンの養成が必要かも知れません。
中国史も満洲史も混沌という言葉が良く似合います。満洲史は日本史とするのですが、国境を接した中国との交渉史でもある。
日本人には、一衣帯水の国、杜甫や李白、論語を生んだ文化の先進国という劣等意識が根底にある。歌人の土屋文明は芭蕉の俳句すら日本古来の文学と思うなよ、という。芭蕉にも杜甫の影響を見ているのである。当時の日本人は明治維新になって初めて実際の中国人に接したのである。それからイメージと実際の落差に悩むことになる。
P209の「多数決というのは、悪い感情を暴走させるシステム」も同感。中略、「マスコミの責任も大きいですが、同時に普通の人、大衆は、知らないことには口を出すべきではない」は、日本のような大衆国家では、通らない。優秀な専門家だけでこっそりやれば反発がでる。この点で、女性らしい了見の狭さを感じる。或いは専門バカというのか。本書には著者の主観が強く出ている。歴史を編んでくるとそう思いたくなるのは理解できる。
人間は間違いを犯す。個人的にどんな優秀な人間であっても組織に組み込まれた途端に変わってしまう。大衆もおなじである。煽られやすいが、束になって巻き返すのも大衆の力である。歴史とは間違いの集積と知人が言っていた。個人、団体、民族、国、連合など。
モンゴルの山に登った仲間の記念写真を見せてもらうと、現地人と並んで写っているが、だれもが日本人に見える。黄色人種同士というのは一種の安心感がある。赤ちゃんの尻には蒙古斑が出る。この人類学的な見地からみてもアジアで戦争が起きて欲しくない、と誰もが願う。
宮脇淳子『真実の満洲史』の断片③ ― 2013/05/06
今朝の朝日新聞の書籍広告にご夫君の岡田氏とともに顔写真入で本書の広告が掲載されています。初版は4/25なのに4/30には増刷が決定とか。知名度が広がり注目度も高いのでしょう。
第3章 満洲国建国、崩壊、そしてその後 215
216から311ページまで差し引き95ページあり、30%です。章立ての名称、分量からして本書の核心部です。
P222
「十三年半しかなかった満州国では、結局憲法は制定されず、国籍法もないままでした。日本人がもっとも忸怩としているのはこのことです。」
P229
「戦後の日本で刊行された本は、朝鮮や台湾、あるいは満洲での日本の政策を「植民地政策」と書いています。しかし、日本は朝鮮や台湾を日本領にしたので植民地ではありません。まし、満洲は、実質的には傀儡国家ですが形式的には独立国です。」
P231
『ロサンゼルス・タイムズ』や『ニューヨーク・タイムズ』などでは、例えば北朝鮮の飢餓の話があると「ノース・コリア、ワンス・ジャパンズ・コロニー」(北朝鮮、かつての日本の植民地だった)などという但し書きが必ず入っています。そうやって日本の非道さを訴えているのです。高山(正之)さんは、これを日本が逆輸入してしまっているのではないかと言っています。」
P232
「植民地と言う言葉を使うとき、多くの場合、帝国主義とセットにして使っています。それは左翼的な物言いで、例えばアメリカに住んでいる人は、自分達では帝国主義と言う言葉を使いません。天皇制という言葉も、同じようにコミンテルンが作ったマルクス主義の言葉です。そもそも日本は天皇制ではありません。
そういった人たちは、植民地を異民族支配と定義するかも知れません。そうであるならば、現在の中華人民共和国のチベットとモンゴルに対する状態を植民地支配といわなければいけません。しかし彼らはそうは言わないでしょう
こういった複眼思考を持たないまま、言葉を定義しないでいると、アメリカやヨーロッパで言っていることを鵜呑みにして、日本だけが悪かったことになるのです。」
P236
「満州国を建国した日本の軍人たちは、ソ連に対抗するような社会主義国家を目指しました。当時、共産主義は世界を席巻していて、敵も味方も社会主義思想を持っていました。二・二六事件を起こした軍人達も社会主義です。右であれ、左であれ、影響を受けなかった人はいません。社会主義を考えなければ、世界史は理解できません。」
P243
「満州国が建国されてから、百万人を越す日本人が満洲へ行きましたが、日本で食べていかれれば、満洲へは行きたくなかったでしょう。中略。満洲を開拓するのに日本人の数が少ないと、日本の影響が減るからです。しかし実際には、自発的に行きたい人はいませんでした。」
P243
「満拓(満洲拓殖公社)が、中国人が耕していた土地を有無を言わせず無理矢理買収し、日本人開拓民が何も知らずに入った、とよく言われますが、満拓が1941年春に所有していた2000万町歩の土地のうち、中国人gすでに耕していた土地は350万町歩でした。日本政府としては、日本移民のための土地買収は未墾地にかぎり、すでに開墾している土地は一切購入しないという方針をきめていましたが、現地でその通りいかなかったことは想像に難くありません。でも、その割合はご覧のとおりです。」
P244
「村でまとまって入植したのですが、大部分の土地は未墾地だったわけですから、大体がソ連との国境地帯ばかりで、戦後になって送り出した村長が後悔したという記録がたくさん残っています。満洲に着いてみるとすごく寒く、それでも故郷の村からみんな一緒に来たのだから、力を合わせて将来を切り開いて行こうと思っていたら、日本の敗戦で悲惨な目に遭いました。終戦時は、関東軍だけが悪いのではなく、引き揚げの列車が着いても、自分達で耕した広大な土地に未練が残り、出発が遅くなった人たちも多くいました。その数日の遅れが生死の差になったのです。
終戦時に満洲にいた日本人は155万人もいましたから、経験も千差万別で、行って良かったと言う人も少なからずいます。また、都市に住んでいた人や満鉄関係者と、辺境に入植させられた農民では、まったく違う体験を持っているのです。」
P245
「山室信一著『キメラ 満州国の肖像』(中公新書)と言う本には、満洲に入植する日本人と現地人との、土地をめぐる争いが、あたかも満洲全体で頻発したかのように書かれていますが、本当に争いが頻繁したのは朝鮮人がたくさん入植した間島省です。今の炎辺朝鮮族自治州で、あの一帯はコミンテルンのテロリストがたくさん入っていました。朝鮮人の入植は非常に多く、日韓併合後、約80万人が、農業に適していない北朝鮮から満州に移住したといいます。」
P245
「満洲に関しては、日本人はこんな悪いことをした、あんな悪いことをした、というような証言がたくさんありますが、その証言が本当かどうかも怪しいです。この『キメラ』でも」、日本の反省点ばかりが書いてあって、統制経済が極限に達して農民がひどい生活となり、零下30度、40度の極寒の地で子どもが丸裸で生活していると、『朝日新聞』の記事を引用しています。中略。
農民の生活がひどいことを言おうとしているのですが、満洲の冬は家の中はオンドルで非常に暖かいです。小さい子どもはお尻を出した服か丸裸で過ごします。それをあたかも零下30度の外にほっぽり出されているかのような書き方をしています。書きようによっては、どのようにでも書けるのです。日本人が搾取や強奪をしたという先入観があると、暖かいオンドルの部屋でも「丸裸で過酷な生活」となってしまいます。一事が万事で、これ以外のことでも、水掛け論になってしまい、真相などは今となってはわかりません。
今では本当に、中国で起きた悲惨な出来事はなんでもかんでも日本のせいにされています。」
P249
「溥儀は東京裁判で証人として証言台に立ちました。東京裁判での受け答えに、日本人は本当にがっかりしました。溥儀が寝返って自身の保身に走ったからです。中略P251
今は満洲での日本の神道を強制したのは関東軍だと言われていて、とにかく悪いことはすべて日本の軍部に押し付けていますが、まったくありえない話です。溥儀は回顧録で、いやいや日本の神様を拝みに行かされたなどと書いていますが、噓ばかりです。とにかく共産党になってから書かれたものは、日本に対するありとあらゆる罵詈雑言ばかりで、信用が置けません。」
P266
「ソ満国境に展開していたソ連軍に攻撃開始の命令が下りたのは、アメリカが長崎に原爆を投下した8月9日です。ソ連は、自国が参戦する前に日本が降伏し、発言力が低下することを恐れて、予定を繰り上げて、8月8日に日本に宣戦布告したのです。満洲国の存在意義はソ連を押しとどめるためにあったといえます。」
P268
「アメリカは日本人のことを恐れていたので、大東亜戦争で本気で叩き潰したかったのでしょう。国際法を無視して、無差別空襲や通商破壊、さらには原爆投下まで行いました。アメリカは日本の一般人を虐殺しまくっています。
日本人は国際法のルールを破っていませんが、戦後はなぜかそれが逆転して、日本が悪かったことにされています。アメリカと中国の利害が一致したので、南京大虐殺などと言い出したのです。こう言ったことが、なぜ普通の日本人には分からないのでしょうか。正直に言って、分からない日本人はもう駄目だと思います。」
P268
「実際にはアメリカもソ連も、当時は日本が恐くてしょうがなかったのです。戦後は諸外国が寄ってたかって日本を叩いて、国際連合でも敵国条項を続けています。ソ連が崩壊し、アメリカも力が弱ってきて、中国が力をつけてきた現在でも、「日本が悪い、日本が悪い」と言い続けないと、自分たちの立場が維持できないのです。放っておくと、自国の民衆が日本の方がいいと言い出してしまうからです。」
P269
「噓をついても、噓というのは永久にはつききれません。どこかでバレて、ぼろが出ます。日本人がしてきたことは、やはり無駄にはなっていないですし、日本の底力というか、「怒ったら恐いんだぞ」という印象は世界中に残っています。以下略
それを理解した途端に、日本人は元気になると思います。日本の歴史の本当の姿がわかれば、それだけで将来は開けると私は思うのです。従って、今、日本の中で自国民が誇りを持つことに対して滅茶苦茶に足を引っ張っている噓を、取り払ってゆくだけで、それ以上は何も言わなくても、日本人は勢いよく前へ進めると思います。
加藤陽子(注)のように、それを恐れる人たちが、なぜそうしてまで外国にへつらって、日本を貶めているのか私には分かりません。国よりも自分の利権が大事なのでしょうか。」
(注)P39に引用された『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の著者。アマゾンの書評を読むと評価は低い。後世からなら何とでも裁けるから。読者は冷静である。私も書店で手に取ったが戻した。最初に結論ありきなら、そして日本の敗戦という事実を軸にすれば書ける内容と見た。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A7%E3%82%82%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%8D%E3%82%92%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E9%99%BD%E5%AD%90/dp/4255004854
P271
「二十世紀の歴史は、日本がまずそれまでの白人絶対の歴史を変えて、満州事変でも世界の仕組みを大きく変えました。以下略
日本は謀略ではなく正論を持って戦争を行ったので、他の白人諸国はおおやけに文句を言うことができません。「植民地主義がひどすぎる。なぜ人種が違うだけで奴隷扱いするのか。白人はけしからんのでアジアの人たちを救ってやりたい」というのが日本の主張で、本当に正道の理由でした。
そして白人の圧力を跳ね返して日本人が強くなったので、白人は正面切って文句を言えなくなりました。そのため、「日本を何とかおさえなくてはいけない」と背後に回って組んだというのが世界の歴史なのです。
P274
「実際には、満州事変も満洲国建国も、日本の一方的な占領工作などではありません。協力者なしに、そういうことができるでしょうか。しか戦後、中華人民共和国が政権をとったあと、すべての歴史を塗り替えて、今に至ります。」
ここまでは著作権法に抵触しないか、と思うほどキーボードを打ち続けてきました。これは字面だけを追っていると中々頭に入りにくいので、一字一字書くことでまじめに文章を読むためでした。集中力の弱った人間の読書法というわけです。関係者よ悪しからず。
これ以降は、すべてが大切で、P311までは、これを書くために今までがあったのです。
しかし、P271のセンテンスだけでも多くの示唆を得られました。写真は昨年4/30に、愛知県の三ヶ根山に登り、山上にある「殉国七士廟」に行った際の撮影です。最後にある言葉「・・・太平洋戦争の真因を探求して恒久平和の確立に努めたいものである」の回答が出ている。真因は世界が寄ってたかって、白人の非道ぶりを批判する日本を叩いたことに他ならない。
それでどうなったか。欧州は植民地を失った。失っても優雅な生活を続けたために今、経済が低迷している。キリギリスみたいだ。日本に逆らった結果である。アメリカはソ連の意図を見抜けず、日本を叩きすぎて、アジアの共産化を招き、かえってアメリカ人兵士を多く死なせてしまった。アメリカの経済も芳しくない。中国も日本からの巨額の投資で世界第二位の経済大国になったが、反日暴動で日本が手を引き始めたら低落傾向にある。偽中国の崩壊は近いという予測がでている。因果応報である。
昨日は栄のコンサートの帰り、繁華街の錦で飲食店を探していたら、韓国なまりの日本語でマッサージの客引きにあった。繁華街のマッサージ店なんていかがわしいものである。韓国人女性の売春が横行しているのだろう。これも韓国経済の落ち目が背景にあろうか。
それではこれからの世界はどうなるのか。
何よりもまず日本の歴史への誤解を解かねばなるまい。本書が多くの人に読まれるように奨める。また英文版が出て世界に広がればなおいい。
おわりに
見開き2ページでです。0.6%
年表
189年から1956年まで4ページあります。1.2%
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4/27 宮脇淳子『真実の満洲史』を買う
http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2013/04/27/6791245
5/3 宮脇淳子『真実の満洲史』の断片
http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2013/05/03/6798736
5/5 宮脇淳子『真実の満洲史』の断片②
http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2013/05/05/6799986
三ヶ根山からA級戦犯を祀る「殉国七士廟」を歩く
2012.4.30 http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/04/30/6430548
第3章 満洲国建国、崩壊、そしてその後 215
216から311ページまで差し引き95ページあり、30%です。章立ての名称、分量からして本書の核心部です。
P222
「十三年半しかなかった満州国では、結局憲法は制定されず、国籍法もないままでした。日本人がもっとも忸怩としているのはこのことです。」
P229
「戦後の日本で刊行された本は、朝鮮や台湾、あるいは満洲での日本の政策を「植民地政策」と書いています。しかし、日本は朝鮮や台湾を日本領にしたので植民地ではありません。まし、満洲は、実質的には傀儡国家ですが形式的には独立国です。」
P231
『ロサンゼルス・タイムズ』や『ニューヨーク・タイムズ』などでは、例えば北朝鮮の飢餓の話があると「ノース・コリア、ワンス・ジャパンズ・コロニー」(北朝鮮、かつての日本の植民地だった)などという但し書きが必ず入っています。そうやって日本の非道さを訴えているのです。高山(正之)さんは、これを日本が逆輸入してしまっているのではないかと言っています。」
P232
「植民地と言う言葉を使うとき、多くの場合、帝国主義とセットにして使っています。それは左翼的な物言いで、例えばアメリカに住んでいる人は、自分達では帝国主義と言う言葉を使いません。天皇制という言葉も、同じようにコミンテルンが作ったマルクス主義の言葉です。そもそも日本は天皇制ではありません。
そういった人たちは、植民地を異民族支配と定義するかも知れません。そうであるならば、現在の中華人民共和国のチベットとモンゴルに対する状態を植民地支配といわなければいけません。しかし彼らはそうは言わないでしょう
こういった複眼思考を持たないまま、言葉を定義しないでいると、アメリカやヨーロッパで言っていることを鵜呑みにして、日本だけが悪かったことになるのです。」
P236
「満州国を建国した日本の軍人たちは、ソ連に対抗するような社会主義国家を目指しました。当時、共産主義は世界を席巻していて、敵も味方も社会主義思想を持っていました。二・二六事件を起こした軍人達も社会主義です。右であれ、左であれ、影響を受けなかった人はいません。社会主義を考えなければ、世界史は理解できません。」
P243
「満州国が建国されてから、百万人を越す日本人が満洲へ行きましたが、日本で食べていかれれば、満洲へは行きたくなかったでしょう。中略。満洲を開拓するのに日本人の数が少ないと、日本の影響が減るからです。しかし実際には、自発的に行きたい人はいませんでした。」
P243
「満拓(満洲拓殖公社)が、中国人が耕していた土地を有無を言わせず無理矢理買収し、日本人開拓民が何も知らずに入った、とよく言われますが、満拓が1941年春に所有していた2000万町歩の土地のうち、中国人gすでに耕していた土地は350万町歩でした。日本政府としては、日本移民のための土地買収は未墾地にかぎり、すでに開墾している土地は一切購入しないという方針をきめていましたが、現地でその通りいかなかったことは想像に難くありません。でも、その割合はご覧のとおりです。」
P244
「村でまとまって入植したのですが、大部分の土地は未墾地だったわけですから、大体がソ連との国境地帯ばかりで、戦後になって送り出した村長が後悔したという記録がたくさん残っています。満洲に着いてみるとすごく寒く、それでも故郷の村からみんな一緒に来たのだから、力を合わせて将来を切り開いて行こうと思っていたら、日本の敗戦で悲惨な目に遭いました。終戦時は、関東軍だけが悪いのではなく、引き揚げの列車が着いても、自分達で耕した広大な土地に未練が残り、出発が遅くなった人たちも多くいました。その数日の遅れが生死の差になったのです。
終戦時に満洲にいた日本人は155万人もいましたから、経験も千差万別で、行って良かったと言う人も少なからずいます。また、都市に住んでいた人や満鉄関係者と、辺境に入植させられた農民では、まったく違う体験を持っているのです。」
P245
「山室信一著『キメラ 満州国の肖像』(中公新書)と言う本には、満洲に入植する日本人と現地人との、土地をめぐる争いが、あたかも満洲全体で頻発したかのように書かれていますが、本当に争いが頻繁したのは朝鮮人がたくさん入植した間島省です。今の炎辺朝鮮族自治州で、あの一帯はコミンテルンのテロリストがたくさん入っていました。朝鮮人の入植は非常に多く、日韓併合後、約80万人が、農業に適していない北朝鮮から満州に移住したといいます。」
P245
「満洲に関しては、日本人はこんな悪いことをした、あんな悪いことをした、というような証言がたくさんありますが、その証言が本当かどうかも怪しいです。この『キメラ』でも」、日本の反省点ばかりが書いてあって、統制経済が極限に達して農民がひどい生活となり、零下30度、40度の極寒の地で子どもが丸裸で生活していると、『朝日新聞』の記事を引用しています。中略。
農民の生活がひどいことを言おうとしているのですが、満洲の冬は家の中はオンドルで非常に暖かいです。小さい子どもはお尻を出した服か丸裸で過ごします。それをあたかも零下30度の外にほっぽり出されているかのような書き方をしています。書きようによっては、どのようにでも書けるのです。日本人が搾取や強奪をしたという先入観があると、暖かいオンドルの部屋でも「丸裸で過酷な生活」となってしまいます。一事が万事で、これ以外のことでも、水掛け論になってしまい、真相などは今となってはわかりません。
今では本当に、中国で起きた悲惨な出来事はなんでもかんでも日本のせいにされています。」
P249
「溥儀は東京裁判で証人として証言台に立ちました。東京裁判での受け答えに、日本人は本当にがっかりしました。溥儀が寝返って自身の保身に走ったからです。中略P251
今は満洲での日本の神道を強制したのは関東軍だと言われていて、とにかく悪いことはすべて日本の軍部に押し付けていますが、まったくありえない話です。溥儀は回顧録で、いやいや日本の神様を拝みに行かされたなどと書いていますが、噓ばかりです。とにかく共産党になってから書かれたものは、日本に対するありとあらゆる罵詈雑言ばかりで、信用が置けません。」
P266
「ソ満国境に展開していたソ連軍に攻撃開始の命令が下りたのは、アメリカが長崎に原爆を投下した8月9日です。ソ連は、自国が参戦する前に日本が降伏し、発言力が低下することを恐れて、予定を繰り上げて、8月8日に日本に宣戦布告したのです。満洲国の存在意義はソ連を押しとどめるためにあったといえます。」
P268
「アメリカは日本人のことを恐れていたので、大東亜戦争で本気で叩き潰したかったのでしょう。国際法を無視して、無差別空襲や通商破壊、さらには原爆投下まで行いました。アメリカは日本の一般人を虐殺しまくっています。
日本人は国際法のルールを破っていませんが、戦後はなぜかそれが逆転して、日本が悪かったことにされています。アメリカと中国の利害が一致したので、南京大虐殺などと言い出したのです。こう言ったことが、なぜ普通の日本人には分からないのでしょうか。正直に言って、分からない日本人はもう駄目だと思います。」
P268
「実際にはアメリカもソ連も、当時は日本が恐くてしょうがなかったのです。戦後は諸外国が寄ってたかって日本を叩いて、国際連合でも敵国条項を続けています。ソ連が崩壊し、アメリカも力が弱ってきて、中国が力をつけてきた現在でも、「日本が悪い、日本が悪い」と言い続けないと、自分たちの立場が維持できないのです。放っておくと、自国の民衆が日本の方がいいと言い出してしまうからです。」
P269
「噓をついても、噓というのは永久にはつききれません。どこかでバレて、ぼろが出ます。日本人がしてきたことは、やはり無駄にはなっていないですし、日本の底力というか、「怒ったら恐いんだぞ」という印象は世界中に残っています。以下略
それを理解した途端に、日本人は元気になると思います。日本の歴史の本当の姿がわかれば、それだけで将来は開けると私は思うのです。従って、今、日本の中で自国民が誇りを持つことに対して滅茶苦茶に足を引っ張っている噓を、取り払ってゆくだけで、それ以上は何も言わなくても、日本人は勢いよく前へ進めると思います。
加藤陽子(注)のように、それを恐れる人たちが、なぜそうしてまで外国にへつらって、日本を貶めているのか私には分かりません。国よりも自分の利権が大事なのでしょうか。」
(注)P39に引用された『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の著者。アマゾンの書評を読むと評価は低い。後世からなら何とでも裁けるから。読者は冷静である。私も書店で手に取ったが戻した。最初に結論ありきなら、そして日本の敗戦という事実を軸にすれば書ける内容と見た。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A7%E3%82%82%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%8D%E3%82%92%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E9%99%BD%E5%AD%90/dp/4255004854
P271
「二十世紀の歴史は、日本がまずそれまでの白人絶対の歴史を変えて、満州事変でも世界の仕組みを大きく変えました。以下略
日本は謀略ではなく正論を持って戦争を行ったので、他の白人諸国はおおやけに文句を言うことができません。「植民地主義がひどすぎる。なぜ人種が違うだけで奴隷扱いするのか。白人はけしからんのでアジアの人たちを救ってやりたい」というのが日本の主張で、本当に正道の理由でした。
そして白人の圧力を跳ね返して日本人が強くなったので、白人は正面切って文句を言えなくなりました。そのため、「日本を何とかおさえなくてはいけない」と背後に回って組んだというのが世界の歴史なのです。
P274
「実際には、満州事変も満洲国建国も、日本の一方的な占領工作などではありません。協力者なしに、そういうことができるでしょうか。しか戦後、中華人民共和国が政権をとったあと、すべての歴史を塗り替えて、今に至ります。」
ここまでは著作権法に抵触しないか、と思うほどキーボードを打ち続けてきました。これは字面だけを追っていると中々頭に入りにくいので、一字一字書くことでまじめに文章を読むためでした。集中力の弱った人間の読書法というわけです。関係者よ悪しからず。
これ以降は、すべてが大切で、P311までは、これを書くために今までがあったのです。
しかし、P271のセンテンスだけでも多くの示唆を得られました。写真は昨年4/30に、愛知県の三ヶ根山に登り、山上にある「殉国七士廟」に行った際の撮影です。最後にある言葉「・・・太平洋戦争の真因を探求して恒久平和の確立に努めたいものである」の回答が出ている。真因は世界が寄ってたかって、白人の非道ぶりを批判する日本を叩いたことに他ならない。
それでどうなったか。欧州は植民地を失った。失っても優雅な生活を続けたために今、経済が低迷している。キリギリスみたいだ。日本に逆らった結果である。アメリカはソ連の意図を見抜けず、日本を叩きすぎて、アジアの共産化を招き、かえってアメリカ人兵士を多く死なせてしまった。アメリカの経済も芳しくない。中国も日本からの巨額の投資で世界第二位の経済大国になったが、反日暴動で日本が手を引き始めたら低落傾向にある。偽中国の崩壊は近いという予測がでている。因果応報である。
昨日は栄のコンサートの帰り、繁華街の錦で飲食店を探していたら、韓国なまりの日本語でマッサージの客引きにあった。繁華街のマッサージ店なんていかがわしいものである。韓国人女性の売春が横行しているのだろう。これも韓国経済の落ち目が背景にあろうか。
それではこれからの世界はどうなるのか。
何よりもまず日本の歴史への誤解を解かねばなるまい。本書が多くの人に読まれるように奨める。また英文版が出て世界に広がればなおいい。
おわりに
見開き2ページでです。0.6%
年表
189年から1956年まで4ページあります。1.2%
関連記事
4/27 宮脇淳子『真実の満洲史』を買う
http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2013/04/27/6791245
5/3 宮脇淳子『真実の満洲史』の断片
http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2013/05/03/6798736
5/5 宮脇淳子『真実の満洲史』の断片②
http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2013/05/05/6799986
三ヶ根山からA級戦犯を祀る「殉国七士廟」を歩く
2012.4.30 http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/04/30/6430548
新聞休刊日 ― 2013/05/07
休刊日五月の朝のはじまらず
そんなわけで昨日の新聞をまたぞろ引っ張り出して再読する。そうそう、元弁護士の中坊公平さんの訃報で探していた『中坊公平・私の事件簿』(集英社新書)がまだ見つからない。雑書に埋もれているかしまい込んだのか。アマゾンで同書を見ると、一時在庫切れ、入荷時期未定とある。書店でも品切れらしい。
記憶を辿ると、特に思い出すのは豊田商事事件である。高齢者を騙して金のペーパー商法で詐欺を働いた。会社を破産し、被害者の債権を取り返したが、元社員だけでなく、給料から差し引かれて納付された源泉徴収税までも取り返したことが記憶の片隅にある。国にまで不当利得返還請求権を行使した。
その後もご活躍の度に紙面に掲載されたが、債権取立てのために銀行の抵当権抹消の交渉での行き違いか、詐欺容疑で告訴され、弁護士廃業というショッキングな記事は信じがたいできごとであった。
5月5日の国民栄誉賞の誉れにあずかる長嶋茂雄さんの顔写真もおいたわしい限りである。右手が不自由で左でバットを持つ写真も見た。ファンとして脳裏に焼き付けられた活躍の場面は消えない。老残の姿とのギャップに愕然とする。
そんなわけで昨日の新聞をまたぞろ引っ張り出して再読する。そうそう、元弁護士の中坊公平さんの訃報で探していた『中坊公平・私の事件簿』(集英社新書)がまだ見つからない。雑書に埋もれているかしまい込んだのか。アマゾンで同書を見ると、一時在庫切れ、入荷時期未定とある。書店でも品切れらしい。
記憶を辿ると、特に思い出すのは豊田商事事件である。高齢者を騙して金のペーパー商法で詐欺を働いた。会社を破産し、被害者の債権を取り返したが、元社員だけでなく、給料から差し引かれて納付された源泉徴収税までも取り返したことが記憶の片隅にある。国にまで不当利得返還請求権を行使した。
その後もご活躍の度に紙面に掲載されたが、債権取立てのために銀行の抵当権抹消の交渉での行き違いか、詐欺容疑で告訴され、弁護士廃業というショッキングな記事は信じがたいできごとであった。
5月5日の国民栄誉賞の誉れにあずかる長嶋茂雄さんの顔写真もおいたわしい限りである。右手が不自由で左でバットを持つ写真も見た。ファンとして脳裏に焼き付けられた活躍の場面は消えない。老残の姿とのギャップに愕然とする。
堤堯『昭和の三傑』憲法九条は「救国のトリック」だったーを読む ― 2013/05/08
集英社文庫の新刊案内で見てすぐに買った。実は月刊誌「WILL」のバックナンバーの堤氏の文中で紹介されていて単行本の古書を取り寄せて読んでいた。文庫本になるとまた手が加えられるので再度購入した。
著者の経歴をみると東大法学部を卒業したエリート中のエリートで、すぐに文芸春秋社に入社して出版人の道を歩む。最後は同社の常務で退社し、後は文筆家でご活躍のようだ。こんな法律と政治と歴史の複合する本を書いていて、法学者でもなく、作家でもなく、ジャーナリストという。本来ならば、歴史の空白は作家の空想力で埋めるのが仕事であろう。ノンフィクション、或いはドキュメントという分野に属するのだろうか。
それは読めば氷解する。何より堤氏は人間が好きなのである。戦後の亡国の淵に立たされた渦中にあって、堂々とアメリカのマッカーサーと渡りあいながら、全知全能を発揮して、日本の国益を考えてゆく人間像を描き出す。吉田以外は芳しくない世評を覆して、「昭和の三傑」として高い評価を与える。諾う。
憲法第9条の戦争放棄、戦力放棄は実に大胆な条項であって、今までよく持ちこたえてきたものである。常識的にはアメリカからの押し付け憲法と見られても仕方ない。力関係のなせる技である。それは実のところ誰にも真相は分からないのであるが、そこを堤氏は豊富な史料を駆使しながら幣原首相の活躍の結果という。日本側からの提案だったというのだ。
結果として皇室を守ることができた。(天皇制は左翼の用語らしいので皇室を用いた。)
巻末の年表で推移を見る
昭和22年5月3日日本国憲法施行
世界は日本国憲法の9条を知って驚いたに違いない。一方で、しめしめと手ぐすねを引いていたのがソ連、中国、北朝鮮の共産主義勢力である。日本の軍事力は壊滅状態で、憲法9条の縛りもできた。もう日本は大陸へ来ないぞ、と読まれた。朝鮮半島を奪うチャンスだとばかりに攻めてきた。
昭和25年6月25日朝鮮戦争勃発
アメリカはあわてただろう。再軍備を迫るが、9条をタテに拒否する吉田首相。アメリカ軍が応戦する傍ら、その後は泥縄式の善後策が講じられてゆく。
昭和25年秋 警察予備隊創設、後に自衛隊となる
昭和26年4月11日 マッカーサー更迭される(4/19 老兵は死なず、ただ消え去るのみ)
昭和26年9月8日 旧日米安保条約締結
朝鮮戦争は9条があるために誘発したと愚考する。この見方で行けば平和憲法の謂いは的外れだ。紛争誘引条項であろう。それが現実というものである。昭和の三傑たちは当時の日本の窮状を鑑みて、救国のみに賭けた。ゆえにトリックとする。窮鳥懐に入らずんば是を殺さず、だ。
北方領土、尖閣諸島、竹島、反日、みな9条が誘引している。
専守防衛の名の下に、事実上の軍事力を備えた日本である。9条の縛りを解くときが来たのではないか。在日米軍はいつかは離日する。戦前のロシア、ソ連の南下政策から中国の海洋進出の政策に怯えることになろう。外交の背景には軍事力がモノを言う。憲法改正の論議の前に本書を一読する意義はある。
著者の経歴をみると東大法学部を卒業したエリート中のエリートで、すぐに文芸春秋社に入社して出版人の道を歩む。最後は同社の常務で退社し、後は文筆家でご活躍のようだ。こんな法律と政治と歴史の複合する本を書いていて、法学者でもなく、作家でもなく、ジャーナリストという。本来ならば、歴史の空白は作家の空想力で埋めるのが仕事であろう。ノンフィクション、或いはドキュメントという分野に属するのだろうか。
それは読めば氷解する。何より堤氏は人間が好きなのである。戦後の亡国の淵に立たされた渦中にあって、堂々とアメリカのマッカーサーと渡りあいながら、全知全能を発揮して、日本の国益を考えてゆく人間像を描き出す。吉田以外は芳しくない世評を覆して、「昭和の三傑」として高い評価を与える。諾う。
憲法第9条の戦争放棄、戦力放棄は実に大胆な条項であって、今までよく持ちこたえてきたものである。常識的にはアメリカからの押し付け憲法と見られても仕方ない。力関係のなせる技である。それは実のところ誰にも真相は分からないのであるが、そこを堤氏は豊富な史料を駆使しながら幣原首相の活躍の結果という。日本側からの提案だったというのだ。
結果として皇室を守ることができた。(天皇制は左翼の用語らしいので皇室を用いた。)
巻末の年表で推移を見る
昭和22年5月3日日本国憲法施行
世界は日本国憲法の9条を知って驚いたに違いない。一方で、しめしめと手ぐすねを引いていたのがソ連、中国、北朝鮮の共産主義勢力である。日本の軍事力は壊滅状態で、憲法9条の縛りもできた。もう日本は大陸へ来ないぞ、と読まれた。朝鮮半島を奪うチャンスだとばかりに攻めてきた。
昭和25年6月25日朝鮮戦争勃発
アメリカはあわてただろう。再軍備を迫るが、9条をタテに拒否する吉田首相。アメリカ軍が応戦する傍ら、その後は泥縄式の善後策が講じられてゆく。
昭和25年秋 警察予備隊創設、後に自衛隊となる
昭和26年4月11日 マッカーサー更迭される(4/19 老兵は死なず、ただ消え去るのみ)
昭和26年9月8日 旧日米安保条約締結
朝鮮戦争は9条があるために誘発したと愚考する。この見方で行けば平和憲法の謂いは的外れだ。紛争誘引条項であろう。それが現実というものである。昭和の三傑たちは当時の日本の窮状を鑑みて、救国のみに賭けた。ゆえにトリックとする。窮鳥懐に入らずんば是を殺さず、だ。
北方領土、尖閣諸島、竹島、反日、みな9条が誘引している。
専守防衛の名の下に、事実上の軍事力を備えた日本である。9条の縛りを解くときが来たのではないか。在日米軍はいつかは離日する。戦前のロシア、ソ連の南下政策から中国の海洋進出の政策に怯えることになろう。外交の背景には軍事力がモノを言う。憲法改正の論議の前に本書を一読する意義はある。
会計業務 ― 2013/05/08
長い連休も明けて初の出社である。白いハナミズキの花も落ちた。周囲は新鮮な万緑の装いに変った。初夏の候。今日も快晴で、遠くに白い御嶽山、乗鞍岳、白山、能郷白山などが見えていると、山友からのメールが入っている。
10:30~17:30まで顧問先にて執務。先月以来溜まった郵便物を開封整理することから始まる。すでに支払い一覧表が出ており、振込みの準備から手形の下書きまでを処理した。早くも5月であり、すぐに決算期が到来する。決算期までの間は閑散期ということもあり、若干仕事も少なくなる。
10:30~17:30まで顧問先にて執務。先月以来溜まった郵便物を開封整理することから始まる。すでに支払い一覧表が出ており、振込みの準備から手形の下書きまでを処理した。早くも5月であり、すぐに決算期が到来する。決算期までの間は閑散期ということもあり、若干仕事も少なくなる。